「美しき建前に殉じる」とは

誰だって、本音と建前を織り交ぜながら社会で生きているが、その配分の具合は人それぞれだ。どっちかが100%という人は余りいない。だから以下の話はそれを極端にして分かりやすくしているところがあるということはあらかじめ書いておく。


本音と建前を考えるとき、私は人間のあるタイプを4つに分けて考えると分かりやすいのではないかと思う。詐欺師委員長ロッカーDQNか。


まず、一般にA「本音を言わず建前だけで生きる人」は「美しく」無いと言われるしその考え方は理解できる。ただし、これには二種類いる。分かってやっている人とそうでない人だ。前者は透けて見える本音のイヤらしさとそれを隠して歓心を買おうとするさもしい根性のイヤらしさが二重に見える分だけ醜く思われるのも無理はないかもしれない。たとえばそれで何らかの利得を得ようとするならそれは卑怯な行為だし批判されるべきだ。つまりこれが詐欺師のイヤらしさ。後者は「自分の言っていることが建前だと気づきもしていない人」で、これもまた、口にする建前が美しい分だけ、真実を知ろうとしていない怠慢とのギャップがやはり人に嫌悪感を催すというのは理解できる。たとえばある種の世代闘争というのはそういう形で表れる。これは「怪しい宗教家」や「学級委員長的」存在、「頭ノ固イジジイ」に感じるイヤらしさ。


それに比べて、B「本音を言う人」はつきあいやすく「美しく」感じられるという考え方はそれなりに理解できる。ただ、これにも二種類いて、やはり分かってやっている人とそうでない人に分かれる。前者は、人間の本音などそもそも「美しくない」ということがよく分かっている。だから、本音を言う行為が持つリスクを承知しつつ、それでも断固として本音を言うことに役割意識を持って述べている。これはロッカーの美しさ。ところが後者は、前者の「美しさ」を根っこの部分で理解できていないため、単に「醜い自分の本音をさらけ出す」だけの存在になり、結果的には「本人は美しいつもりだが、単なる醜い存在」になりかねない。勘違いしているDQNな人というのはそういう存在で、前者のつもりで後者になっている……ロッカーのつもりがただのチンピラ。そういうことって、最近世の中に多いのではないだろうか?


そんなことを考えたのは、ホッテントリのこの記事(「うそだと言ってくれ」H-yamaguchi.net)を見たから。記事内容に共感しつつ、なぜ彼ら(この話に出てくる「党執行部の人」など)は平気でこういうことをするのだろう……もっと言えば、なぜこういうことをする党が平気で「品格」とか「美しさ」を云々し、しかもまたそれが今支持されているのだろう……と考えて、上のようなことを思った。リンク先のH-yamaguchiさんのように激しくこれに違和感を覚える人がいるにも拘わらず(そして私も、こういうやり方には激しい拒否感を拭えないのだが)こういうやり方がまかり通るのはなぜなのか。それは、彼らの単なるDQNな主張がロックをやってるつもりで、そして彼らがロックをやっていると理解している人がまた一定以上いるということなんではないだろうか。


上の分類、実は全く違う根拠を元に完全な組み替えが可能だ。現在Aで詐欺師委員長、BでロッカーDQNを組み合わせているが、要するに「嘘つきであるか否か」によって組み替えることができる。つまり、詐欺師ロッカーも「一種の嘘つき」*1だが、委員長DQNは「嘘をつかない/つけない人」だということだ。これは、言ってみればそういう人間の「タイプ」だとしか言えない。本音を言うか建前を言うかというのは現象面だが、嘘を意識しているかいないかは内心の問題で、本当はそちらの方が分け方としてはより本質的で決定的な差ではないだろうか。


私は、現在の政治のやり方は委員長DQNが主導権を握っていて、それをロッカーが積極的に支持しており結果として詐欺師が完全に少数派になっているからだと感じる。多分、H-yamaguchiさんや私のような人間は詐欺師タイプなのだろう*2。しかし、詐欺師タイプとして、その中には少数ながらいわゆる『詐欺師』ではない人もいるということをあえて主張しておきたい。


それはつまり「努力目標」という考え方を持つか否かによる。


美しい理想(建前)を実現したいが、現実の抵抗(本音)に出会った時、現実(本音)の部分では様々な策略や謀略や丁々発止の駆け引きを行いつつロッカーと共闘し、また、それでも最終的に実現すべき目標としての理想の価値は信じていて、従って理想の看板(建前)はおろさずむしろ積極的にそれを看板として利用することで委員長を味方に付け、DQNの現実の抵抗(本音)を乗り越えて行くというのは現実的な戦略としてあり得ると思う。美しい理想を掲げつつ、「努力目標です」と言い放てる人間というのはそういうことが分かっているのではないか。人はそれを嘘つきと呼ぶかもしれないが、そういうことを言う人はたとえばロッカーが「本音をむき出しにすること」だって十分に政治的な行為であり一種の嘘であるということが分かっていない。
彼らは自らを委員長的リーダーと見られるためには、たとえば建前である理想に殉じようとすらする。建前としての理想の持つ価値を冷静に計量しているという意味では、誰よりも理想派と見られる主張をしていても、同時に非常に功利的である。


もちろん、ここで書いたのはあくまで人間の持つ一つの仮面のタイプであって、実際に生きていく時に我々が取る態度とはもっと複雑であるかもしれない*3。しかし、それを細かく要素に分類していくと、おおよそ上のような4つのタイプが見えてくるのではないか。
そう考えた時、現下の政治状況と、先日考えた学生運動全共闘の時代との奇妙な共通点をそこに感じる。なぜなら、個人的な理解では学生運動というのは結局体制に反抗するロッカーの尻馬に真面目な委員長とお祭り好きなDQNが乗ったということではないかと思っているからだ(たとえば一個人の内部でも)。そこで置き去りにされていたのは、いわば上に述べたような「良心的な詐欺師」の視点で、そしてかつての運動が瓦解した理由、現在の日本に自分が感じる危うさも、結局の所その一点にある気がしてならない。
鳩のような素直さを我々は愛でるべきである。ただし蛇のような賢さも必ず併せ持つべきではないか。また、蛇の中にだって良心はあるかもしれない。キリスト教国に住んでいない我々は、知恵の実を食べさせた蛇を必ず悪魔の化身と限る必要もないではないか。

(追記)
TBをいただいたので改めて若干の加筆修正、追記(5/23)。
理想論でもキレイゴトでも嘘でも建前でもいいじゃない(「虎ときどき牛(奥の間)」)
送り主は以前に確か自殺予告手紙のエントリTBに関するやりとりをしていただいたohtosさん。相変わらず、センシティブな問題であっても一本芯の通った理路整然としたエントリを書ける人だ。
前回はおそらく立場の違い、という点で相互了解があった。今回のエントリに対しては「立場の違い」も無く全面的に同意。「現実主義」を言い立てる大抵の人は「現実追認主義」に過ぎず、つまりは敗北主義者である。私はohtosさんほど学がないので、マンガの台詞を引用したい。

「現実からの逃避ではない。現実からの離陸だ」(「濃爆オタク先生」徳光康之

*1:つまり敢えてリスクを負っている、という無理をしているという意味で

*2:勝手に決めてすいません

*3:本文中で使った言い方を使えば、ロッカーを装う詐欺師とか、そういう生き方はあり得る。多くの場合怪しい宗教家は委員長のフリをしているが詐欺師だな、とか。