自転車泥棒をめぐるニュース

自転車泥棒が嫌いだ。
大学時代はひどく貧乏だったので、一度自転車が盗まれた時は真剣に死活問題だった。結局盗まれた地点から推測して夜通し歩き回って探しまわり、明け方見付けて取り返した。金は無いが時間だけはあった頃のことだ。
また、当時自分は実家を離れ下宿していたが、高校時代3年間愛用した自転車が実家で盗まれたと聞いた時には気を失いそうなほど腹が立った。たかが自転車と言うなかれ。片道7kmほどの山道を一年ほど(こっそり)自転車通学し、なんども共に死線をくぐった相棒である。今思い出しても悔しい。犯人が今目の前に現れ土下座して許しを請うても、私は多分一生許さない。それぐらい悔しい。自転車泥棒したことある人、軽い気持ちでやっているのかもしれませんが、自分がどれだけ被害者に恨まれているかは少し考えた方がいいですよ。世の中の人全員があなたのように、常に鷹揚で小金持ちで、そして倫理的にルーズであるとは限らないのですから。


さて、そんな自分だが次のニュースには色々と考えさせられた。
自転車泥棒がお礼と苦言の手紙
(ウェブ魚拓)

岐阜県】今月初め、可児市内で鍵がついたままの自転車を盗まれた市内の男性に、後日犯人からとみられる手紙が届いた。鍵を同封し、自転車の所在を告げる内容。かなだけを使ったつたない文章で「お礼とおわび」に1000円分の商品券が同封されており、「自転車も戻り、温かい気持ちにもなった」と話す。

ああ、よくあるハートウォーミングなニュースね、と思った人、とんでもない。お代を取ろうってんじゃないんだから、まあちょっと聞いていきなさい。


上のニュース、リンク先の記事をひとまずざっと読んで見て欲しい。皆さんはすーっと読み流されただろうか。何かあたまの片隅にすこうしひっかかるようなモノを感じられないだろうか。


まず、盗んだ人間である。彼は自転車を盗むのが悪いことだと認識している。そして自分の祖父の臨終に間に合おうとする温かい心の持ち主である。しかし、「わたしがいうのもなんですが、じてんしゃにはカギをかけとくほうがいいですよ」と書き添えるのはユーモアなのか何なのか、いずれにせよ自転車泥棒という行為をそれほど大きな問題とは捉えていないようだ。しかしその感覚はなんだかおかしくはないか。
たとえばこれが「置きっぱなしのサイフをちょっと持って行きました」ならどうか。美談にはほど遠い話にならないか。そこに入っていた二千円を使ってタクシーで祖父の臨終に間に合いました、とか。心温まるどころか激しく怒りを買いそうである。しかし自転車は中古でも5000〜一万円はするだろう。どうして自転車は良くてサイフはアウトなのか。
次に、この彼のたどたどしい日本語っぷりは、どうやら在留外国人であるのか。自転車を盗んだ病院というのは、岐阜県可児市広見で老人が通いそうな近所の病院と言えば
藤掛病院
(地図)
あたりか。そうすると、表に自転車を置きっぱなしにしてるような病院には見えないから盗んだのは見舞客か何かだろう。客は誰かの見舞いに来ていて、自宅から(?)連絡を受けて飛んで帰るために、徒歩約10分の駅まで急いでいく方法が欲しかったのだろう。1000円出すのを惜しまない所を見ると本当はタクシーがあればタクシーを利用したのだろうが、残念ながら長期療養型の病院のようで、玄関前にタクシーが客待ちしているような大きな総合病院でなかったのだろう。そこで走るという選択でなく自転車を盗んだのは、おそらく電車の時間をきちんと調べて知っていたという可能性が高い。その辺りを考えても、おそらくそれなりに日本語もでき、肉体労働系というよりは知能・技術系の在留外国人なのだろう。……しかし、ここまで考えれば大体病院でも「ああ、あの人」と心当たりが無い者だろうか?本当に。事件は今月5日だそうだが、もう20日以上も経っている。少し調べれば誰がやったかは分かりそうなものだが。探しもしていないのだろうか。またなんで20日も経ってからニュースになっているのか。


また被害者の口調もなんだかおかしい。

太田さんは「乗り捨てせず、知らせてくるなんて今どき珍しい」と感心しきり。

いや、「今どき珍しい、と感心」という日本語はちょっとおかしくないか。「今どき珍しい、と感心」というのは、私の感覚では「本来は我々一人一人が果たすべき責務だが、忙しさに取り紛れて人任せにしてしまっていたりすることを、あえてきちんとやり遂げたりする」ような場合に使う言い回しなのだが、違うのか。たとえば「駅前でボランティア清掃を一年間続けた」とか言うなら、私だって「今どき珍しい、と感心」するのに吝かではないが、泥棒が盗んだモノを返して寄越したというのは別に「いまどき」だから珍しいのではなくオールタイムいつでも「珍しい」行為に属するだろう。
かと思っていたが、人に借りたモノを返すだけで「今どき珍しい、と感心」して貰えるのか。そんなことを言っていたらア○ムやらレイクやらは商売あがったりだと思うのだが。
まあ、「盗んだくせに悪いと思って改心した点」をさして「今どき珍しい、と感心」しているのかもしれない。しかし悪人が改心するのは当然のことであって、わざわざ感心するようなことではないだろう。改心しない悪人に対して呆れ、改心した悪人に対して「よしよしこうでなくてはいかん」とうなずくのがあるべき姿ではないのか。改心しない悪人や領収書を公開しない悪人のやることは仕方ないとスルーして、改心した悪人を見ると物珍しそうに「いや、今どき珍しい、感心した!」って、それは余りにも倫理観がおかしくないか。そんなことに感心するなら、もっと偉いことをしている人は世の中に沢山いるのだからそっちに感心したらどうかと思うのだが、そういう人は大抵自分が想像もできない偉人の所業をみるとどうしてもそこに裏があると思いたいらしく素直に感心して見せたりはしないようだ。正直な泥棒に感心して偉人に対してはやたら勘ぐるというのは一体どういう心理構造なのか。これがいわゆる「下司の勘繰り」という奴か。それにしても変な話だ。


最後にこの記事を書いた記者に問いたい。これは一体どういう「ニュース」なのか。ちょっとハートウォーミングな、在留外国人と年金生活者という現代性のある二者の間接的交流譚に「自転車には鍵をかけましょう」という社会派メッセージをこめました、クス、みたいな感じの記事なのか。それにしては後味が非常に悪い。何が後味悪いかというと、この記事全体から、「まあ自転車を盗むなんて、誰でも経験したことあるちょっとした悪事?みたいな?でも正直に返した外国人がいたんだって(プッ)おもしろいよね〜」……みたいなワルノリ臭を無茶苦茶感じる所だ。記者にはそんなつもりはない?では、そうでなければどんなつもりでかような極悪犯罪をハートウォーミングなニュースにしたてているのかその了見を明らかにして貰いたい。


……まあ、そもそも「自転車泥棒」という悪事を心から憎む人間が意外と少ないのではないかとは、私も以前から疑っていた。一万円入ったサイフを盗むのと一万円で買ったボロ自転車を盗むのと、みなさんにはどちらが悪事に見えるのだろうか。どうして前者の方が後者よりも悪くとられることが多いのか?ボロ自転車には「交換可能性」として一万円の価値が無いからか。しかし自転車を無くした人間が再び自転車を手にするために再び一万円サイフから奪われることを考えれば、ボロ自転車自体の交換価値はこの場合問題ではないことが分かる。問題は時価額ではなく「再び自分が同じ自由度を獲得するために必要な額」なのでありその意味で自転車にはやはり一万円の価値が(当人にとっては)存在するのだ。それはたとえば地震で家を失った老人が、仮設住宅で「耐震設計もない家ですから、被害は時価総額にすればこんなものですので」と、新しく家を建てるにはおよそ足りない額の保険金を与えられても、自分の将来を悲観するしかないのと同じである。自転車泥棒が心の中で「こんなボロい自転車、盗まれてもまあいいだろう、へっ」みたいに思っているとすると大間違いで、「こんなボロい自転車を大事に乗っている貧乏な人の懐から金を奪うなんて」と考えるのが正しい。もちろん捕まった時のこと、賠償の可能性を考えリスク対策として「時価評価額の低い獲物を狙う」というのが泥棒的戦略なのかもしれないが、それは相手から買うかもしれない恨みの度合いを考えない、余り賢くない選択だろうということを忠告しておこう。要するに、貧乏な生活をする人間から黙って一万円奪おうとするような人間は、相手から刺されたって知らないよ、なのである。


まあそんなプチお怒りモードのような仕事疲れのやるせなさのはけ口のような酔っぱらいのクダのようなエントリをちょっと書きつづりたくなった、参院選二日前の夜であります。すいません。要するにストレス解消の暇つぶしエントリでした。


そんなわけで、おつきあいありがとうございましたm(__)m。
…あ、お代は結構ですから……て、あっ……石投げなiわえsxrdctvfygぶh