増田と人力で「関西弁vs標準語」論争が勃発中

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関西人は…
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関西人は、なぜ東京へ来ても堂々と関西弁で話すのでしょうか? 他の地方出身の人は、大抵標準語で話すのに。。                                                                               


「言葉とは何か」とか「標準語の成り立ち」とか、みんなもう少し勉強した方がいいんじゃないか。
「標準語にまつろわぬ人々」である関西人を、自らを「標準語の人間」だと信じている東京人が叩くその心性は分からなくもないが、しかしそれは随分奇妙な構図なのだ。なぜなら、本当は前者こそ「テレビや何かで標準化された標準関西弁」をしゃべっていたり、後者が「〜しちゃった」とか「しょうがない」などの単なる東京方言*1を使用していたりするからだ。前者は「関西弁」と信じてむしろ方言を圧殺していることに無頓着であり、後者は「標準語」と信じて方言を喋っている。そして後者が前者に「方言の無意味さを語る」という構図は、なかなかシュールだ。


ここには同時並行で二つの問題が露呈している。
A「メディアが形成する国民国家 vs 人と人のつながりが作る市民社会」問題
B「大阪 vs 東京」問題

である。先にハッキリ言っておくが、こうやって比較してみれば分かるとおりこれは、優劣や便利不便で方付けたり、まして解決したりということが一切期待できない問題なので、論じるだけ無駄だ。国民国家市民社会のどちら「が」優先されるか、ではなく、どちら「も」大切にしていくしかないことは明白だし異なる二つの地方に論理的な正解不正解や優劣をつけようという試みなど、単なる己の趣味の投射か卑賤な差別意識を照らす鏡になる以外のどのような意味もあり得ない


とりあえず、単純な方言否定論者に言っておくが、自分が方言を使っていないなどというのは思いこみに過ぎない。方言を否定するのは自分を否定するのと同じである。言葉と言葉の「通じ具合」について標準語の方がいくらか適しているとかそういう一見もっともらしい主張は、それが単に「国民国家的に便利だ」という主張にしかならず「個人と個人が暖かみを伝え合う市民社会的には不便だ」という主張であっという間に論破されることになる(つまりAの問題)。それ以外にどういう「標準語優先論」があり得よう?*2とりあえずまず「標準語≠東京弁」だということを自覚した上で発言すべきだ。


ならば要するにいわゆる「方言否定論者」は、自分が単なる「東京弁至上主義者」であり他の方言を美醜で判断するエキセントリックな趣味を周囲にまき散らしているに過ぎない*3ということを気づかなくてはいけない。それはたとえて言えば、大声で誰かに向かって「お前の顔キモいよ!キモい!」と叫ぶような、身の程知らないか、いずれ自分に返ってくるみっともないだけの行為だからよしなさいと忠告しておく。


(追記)
下に色々コメントがついていますが、正直最後まで読むと脱力されると(私は脱力しました)思いますので余りおすすめできません。一応。


(追記2)
定期的に湧くネタですね、この話。ちなみに今回のトピ主さんはなかなか冷静かつ論理的に頑張っておられるようで好感が持てますね。
■「関西弁は柄が悪い、下品だ」「大阪は民度が低い」

*1:言うまでもないが、「標準語」ならば「〜してしまった」とか「仕方ない」というのが正しい。これは口語か文語かという問題ではない。それを言うなら、そもそも「口語の標準語」など未だかつて制定されたことすらないのだから、口語で語るあらゆる方言を標準語と比較すること自体がおかしい。

*2:たとえば増田にあった意見だが『異郷の人とのコミュニケーションではスタンダードとされている言葉を使うべきだ』という意見は、それを『標準関西弁』を使う人に対して述べているなら滑稽な意見に過ぎない。もちろん多くの「ふつうの関西人」は、関東に行って関東弁しかしゃべれない人に対して「関西弁まるだし」で話をしたりはしない。それに、ある言葉にはその言葉にしか存在しない言い回し、ニュアンスを含む場合があり、翻訳が常に可能であるとは限らないが、標準語の強制が方言の中にあるそういった『内容』に対する抑圧になりうるという視点を、そういう人は持つべきだ。「同じ言葉を喋れ」というのは「同じように考えよ」ということなのである。これは本エントリとはまた別の問題だが、普通に言うまでもない話だと思うので省略する。

*3:ちなみに、関西人の中にもまた似たような『標準関西語至上主義者』がいて、東京で大声で奇妙な「自称関西弁」をまき散らしたりしており、彼らもまた同じ理由で間違っていることは言っておく。