一連の問題の隅っこで少しつぶやいてみる

傷ついている人が幸せな人に石を投げる。幸せな人がそれで傷ついても、相手が「わたしは血を流してるんだ!」と叫ぶせいで責められない。外野がその風景に喝采を送る。みんな「幸せな人」にうんざりしていたから?なんかおかしくないか。


傷ついている人に味方すれば、みんなの正義感は満足するのだろうか。「オレらもあいつが気にくわなかったから、責められそうにない奴が石投げてくれて正直せいせいしたよな!」ってことなら、それが醜くゆがんだ「苛め」以外の何ものなのか私には分からない。


甘ったるい記事の流行に仮にうんざりしているのだとしても、それはそういう記事をもてはやし流行とする「世相」の問題であって個々のエントリの書き手の問題ではない。まして、そういう記事をわざわざ探し出して読んでケチをつけるという常軌を逸した行為がそれで相殺されたりなんてすることはない。どちらかというと、hasigotan氏の身勝手な暴言を「悲鳴」と聞き取る玄倉川氏こそ私には「どんだけカワイソ話に飢えてるんだろう…」と思えるのだが、氏にその類の自覚はあるのだろうか。

hashigotanの悲鳴(批判と呼ぶには悲痛すぎる)を聞かされた後のidiotape氏の対処は立派だった。あるいはたいへん醜悪だった。
どちらの見方をとるかはその人の考え方による。私は言うまでもなく後者である。
小沢一郎じゃあるまいし、「消します」「みなさんが惜しんでくれたから戻しました」「でも本当は悩んでます」そして結局はブログ削除というのはどうなのか。ブログを書くのも消すのも本人の勝手だが、正直言って呆れた。どれだけ自意識過剰なのか、「誠実で傷つきやすい自分」を演じるのが好きなのか。私はこういう人を信用しない。

文章がとんでもなく上手で、「誠実」な「いい人」の俗物がネットから消えて私はせいせいしている。
あるブログの終焉(玄倉川の岸辺)

消そうか消すまいかの逡巡すら批判のネタなのか。そして「文章がヘタクソで不誠実な人間」がネットに増えてくれれば、玄倉川氏は嬉しいのか。そしてhasigotan氏は「傷つきやすい自分を演じるのが好き」な人には該当しないのか。hasigotan氏の傷は同情すべきで、石を投げられたidiotape氏の傷は同情に値しないのか。一体それはなぜ?



別に「公正であれ」と云いたいわけではないが、hasigotan氏を擁護する人々に正直に聞いてみたいのは、個々人の感覚に一体いかなる論理的一貫性があるのか、ということだ。これが私にはサッパリ分からない。
idiotape氏の文章は、素人にしては上手だったが一方素人相応に下手でもあった*1。下手なのに真面目ぶって人気得やがってキモい、ムカつく!ということなのか。それはただの『妬み』ではないのか?
そして、(いささか理不尽ながら)相手の言葉の暴力性を咎めだてする人自身の言葉の(こちらは明らかに現実的な)暴力性を、なぜ不問に付すことができるのか。キャラだからとか真剣だからとか傷ついた過去とかそういう言い方で解決できるものではないだろう。それは単なる「業界内お約束」的『甘え』ではないのか?
『甘え』と『妬み』が「苛め」を陰湿に加速する、現代のどこにでも見かける風景であるが、それ以上に大切な何かがそこにあるというなら正直教えて欲しい。


そもそもなぜ、自分が面白いと思ったわけでもない記事を全文読んで、そのうえブクマ記事まで読まなければいけないのか。自分の人生の時間を、そういう無駄というより負な行為で一杯にすることに疑問を感じないのか。「それは強者の論理だ」と云うならば、それは当然だ、と答える。そもそもネットで情報を発信できるという時点において我々は全世界の過半の人より圧倒的に強者なのだから。強者は強者らしく振る舞うべきであり、それができないなら批判されてしかるべきだ。違うだろうか。


(付記)
なお「私は『醜くゆがんだ苛め』が大好きなので正直放って置いて貰いたい」という儀なら、それはそれで納得するし以後構わないので、返事は特に期待しない。

*1:本人も認めているように、自意識の過剰が透けてみえる部分が読み手の鼻につく表現が多々あった