2009年開始の裁判員制度と死刑について

まず、大前提として自分は裁判員制度の導入に反対はしていません。その上でいくつか疑問が出たのでメモ。


(1)量刑決定のシステムに関する疑問
参考ページ:http://www.geocities.jp/aphros67/080100.htm
例:9名の合議、「死刑4名、無期懲役2名、懲役20年2名、懲役18年1名」における「多数決」で、一体どのような量刑が課せられるか? 正解は「無期懲役」 その理由は参考ページを参照のこと。
疑問−1:これは「多数決」なのか。死刑を薦めるわけではないが、この場合「多数の意見」とは「死刑」ではないのか。また、たとえば次のような事例だとどうなるか。「死刑4名、懲役3年1名、禁錮2年(執行猶予つき)4名」、この場合、上の話に従えば「懲役3年」が課せられるわけだが、それは本当に妥当な「多数意見」なのか。もちろん「合議」してそういうことが無いようにするとはしても。
疑問−2:有罪・無罪論議で「無罪」を主張した人も、量刑に関する議論をしなければならないというのが非常に不自然で難しく感じる。無罪だという考え方自体を変えることが求められるわけだが、様々な証拠から構築した自分の考えをいったん全部放棄した上で改めて判断を求められるというのは、非常に不自然で信頼がおけないという印象を参加者に与えはしないか。


(2)裁判官による誘導に関する疑問
参考ページ:http://s04.megalodon.jp/2008-0413-0956-10/www.nishinippon.co.jp/wordbox/display/5038/?autonum=5038西日本新聞キャッシュ)

 また、「裁判官の意見に誘導される傾向がある」との指摘も出た。量刑を決める際、裁判官3人はいずれも懲役3年6月−4年が妥当と発言し、この後、多くの裁判員が当初より重く「修正」した。意見を集約するには、裁判長が方向性を示すことは必要だ。ただ、強引すぎると裁判員制度の意味が失われる。微妙なバランスをどう取るか。難しい課題と感じた。

疑問−3:参加する3人の裁判官も、このように自由に自分の意見を言うのか。模擬裁判とはいえ、これだけ意見を揃えられると反論する余地は全くないように感じるが、いかがなものか。これでは参加した人間が「最初から自分たちは必要ないのでは?」という感じを抱くと思うがどうか。裁判官の間にも意見対立がありうるだろうから喋るなとは言わないが、量刑まで一致している状態なら司会の一人を除いて黙っていてくれた方がありがたい。「権威」を背景にして語る人間は、自分の「権威」について自覚的であるべきで、そうでなければ見かけの「公正」に名を借りた「抑圧」行為を行うことになる。



(3)「市民が市民に死を宣告する」問題

陪審制では市民が有罪・無罪を決めると言っても、量刑は裁判官が行なう訳ですから、市民が直接死刑の判決を下すことはありえない訳です。(もちろん凶悪な殺人犯であれば、有罪イコール死刑であるかも知れませんが、それでも刑を決定するのは裁判官です。) 一方、裁判員制を含む参審制では、市民が量刑まで行なう訳ですから、死刑判決の責任の一端は市民が負うことになります。私たちが裁判員制度のことを考える時、気が重くなる理由のひとつはそれがあるからだと思います。それも民主主義の国に住む市民としては、引き受けざるをえない心理的負担なのでしょうか? ところが、いいですか、参審制を採用している国のほとんどは、すでに死刑を廃止した国なんですよ。少なくとも先進国においては、参審制採用国は、すべて死刑廃止国なのです。ということは、裁判員制導入後、日本は先進国中で唯一、市民が市民に死刑を言い渡す国になる訳です。
死刑のある国の裁判員制度(巷間哲学者の部屋)

疑問−4:「先進国中唯一」の制度を導入する意味とは何か。「上告もできるから重く考えないで」と言うかもしれないが、それでも自分が誰かに対し「死ぬべきである」と論理的に帰結し宣言したという事実は重い。もちろんそれが民主社会における応分な負担であるというなら、飲もう。だが、今日本で、世界のどこにもないような制度を運用開始する意味とは何か。その点について誰がどういう責任で説明したか。


(4)その他
疑問−5:「任意に抽出した市民6人に意見を述べさせ、真剣な討議を、誘導に陥らず公正にリードする」というのは相当高い「司会」スキルだと思うが、裁判官の方々はどこでそういう研修をされているのか。そもそも研修をされているのか、など。彼らの法廷における経験とは全く違った場であり、そこに求められるのも全く違った能力だと思うのだが。



=======================以上を踏まえて=======================
裁判員制度についての告知が足りない、という報道を見かけるが、それは「ポスターや標語」の問題ではなく、「政府の意図を分かりやすく人々に広めることができる立場の人間に、制度の主旨や具体的な運用、効果などが伝わっていない」ことに原因があると思う。制度運用開始までにそのギャップを埋める努力をぜひ関係者に求めたい。


追加:参考ニュース
模擬裁判 五グループ判決…量刑の差検証する初の試み