「一発でつかんで、かつ届く」について

先日の記事で「中間層にヒットする、『一発でつかんで、かつ届く』」話を書いた。
昨日やはり小さな説明会があり、週明けに大きなのがもう一つあるので、覚え書きにかえて、少し続きを書こうと思う。
ちなみに、こうやって常体で書いてる記事はおおむね自分用の整理メモなので、たまたま訪れた人はそういう感じで、適当に読み流したりしていただけると嬉しい。
学校時代の校長先生とかは、やたらと朝礼とかで「3つの○○」というのを強調してたけど、個人的には「そんなにいくつも(毎週とか毎学期とか)3つの○○があったら大変、つか3つじゃねーじゃねーか」と覚めた感じで見ていた。まあ、「今日自分が話したいことには3つポイントがあって〜」ということを言いたかったのだと思うが、たいていはそういう矮小化した話ではなくて、あたかも「人生の肝心はこの3点に尽きる!」みたいな異様なテンションで語られたりするので、胡散臭さが否めないのであった。
まあ、自分がそういう胡散臭いレクチャーをする側になってみれば、話をまとめる意味で3つにしたがった気持ちはそれなりに分かるのだけれど、それでもやっぱり毎回「3つの〜」とやられると、聞いてる側もうんざりだと思う。
最近自分が考えているのは、「3つの〜」もいいんだけれど、そこに「ストーリー」を作るということ。簡単な構成意識と言ってもいい。いくつかレクチャーをしてみて、こっちの方が、聞いてる側の食いつきの真剣味とか、質疑の熱心さとか、理解度がいくらか良いような気がする。一定成り立った因果の連鎖がそこにないと、自分の理解がまず成立しないし、従って説明にも力が入らない。
言い換えればこれは、自分なりの「世界をどう把握するかのメソッド」ということ。因果の連鎖が無限であることはそれとして理解しつつも、そこに「意味」をあらしめるためには(あるいは「物語」を生成するためには、というべきか)因果の連鎖を一定範囲内で、かつ現実との齟齬が可能な限り小さくなるような切断が必要である、ということ。


それは、たとえば、似顔絵を描く際に必要なこと。人の顔を「映像」として捉えるのでなく、「物語」として捉えて、必要な情報を切り落としたりときには拡大したりして、ときには「実際の映像よりも実物らしい」ような記号を作り上げる作業。
あるいは、映画製作。ある「世界」の断片を、2時間半に集約し、編集して、そこに「物語」や「感動」を現出する行為。
あるいは、俳句。世界や人生の真実を、十七音に凝縮し再現する行為。


凝縮された断片が、同時に世界そのものであるような構造*1を作り出すための一つのキーは、「謎(ミステリー)」かもしれない。謎は、物語を紡ぎ出すエンジンだから。自分のキーワード→物語化には、まだ「謎」が足りない。来週の説明会では、その辺りをちょっと意識してみたい。

*1:フラクタル構造?

ドクターに関するコメント

金剛大阿闍梨2010年3月8日(ドクター・中松の発明BLOG)

先月、私はインドに訪問致しました。

チベット仏教最大宗派「ゲルク派」トップから「金剛大阿闍梨あじゃり)」の位を授与致しました。*1
魚拓


チベット仏教ゲルク派・ガンデン座主からのお知らせ(ダライ・ラマ法王日本代表部事務局、平成22年8月1日付)
 

彼は帽子を持参し、写真を撮らせてください、と私のところにいらっしゃいました。その彼の希望にそっただけです。

大変だねえ、発明世界一*2

*1:授与「されました」の誤か?

*2:自称

単なる日記

一日家。ときどき買い物。あと仕事。最近の休日はそんな感じで、それでいーのかよ、と。


過去いろいろとblogに書いていたことが、どうも仕事そのものになりつつあって、今は、言ってみればblog書く代わりに仕事しているような感じ。世の中というページに記事書く作業は、楽しいと言えば楽しいかもしれないけれど、ずしり、と重くもあります。


昨日は久しぶりに人前でレクチャーみたいなことする機会があって、ちょっと変なテンションでした。ダメダメでした。もう少し考えてやらないとダメです…。継続客相手の営業と、一見さん相手の営業のメソッドは違って、そしてその中間を狙うところには、そのどちらとも違ったメソッドが必要。前者には、「相手に届く」ことが必要だし、後者は「つかむ」ことが必要。そして中間には、「一発でつかんでかつ届く」ことが必要なんだなあ。



と、まあ、たまに書かないと突然アカウント消えてたりしても困るので、日記というか、メモ?書いてみた。意外と大事なこと書いた気もする。

マスメディアの凋落と自壊を防ぐには?

内田樹さんが、現在の新聞はじめ多くのマスメディアの凋落について、彼らの「思考の行き詰まり(限界)」について触れた興味深いエントリをアップしています。

新聞記事の書き手たちは構造的にある「思考定型」をなぞることを強いられている。
それは世の中の出来事は「属人的な要素」で決まるという思考定型である。
要するにこの世には「グッドガイ」と「バッドガイ」がいて、その相克の中ですべての出来事は展開しているので、誰がグッドガイで誰がバッドガイであるかを見きわめ、グッドガイを支援しバッドガイを叩く、ということを報道の使命だと考えているということである。

自分が新聞を取らなかったり、TVを見なかったりする理由(興味が抱けない理由)の一つに気づかされた気分です。言葉というものを「ナメた」メディアは、一見隆盛しているように見えても、決して長持ちしないと思います。*1



さらに、元のエントリは、そこから更に展開して、「個人」でなく「文体」が語るということの問題に切り込んでいます。たとえば定型的な週刊誌の煽り記事を読んでうんざりした気分にさせられる理由は、「文体」が語っていてそこに「個人」がいないからだ、と。そして内田さんはさらに、「個人」が「個人」として語ることができることがインターネットのアドバンテージだ、という話につなげていくのですが、私としては、そこに少しだけひっかかりがあります。
そして、そのひっかかりについて考えてみると、そこから、マスメディアの凋落に少しだけ歯止めをかける方向性が見えてくるかもしれない、あるいは見えないまでも、同じ問題に切り込む少しだけ角度を変えた切り口にはなるのではないだろうか、と考えたので、少しだけ休みを利用して書いてみます。




そもそも「組織」と「個人」の問題、あるいはもっと大づかみに「公・個・私」についての整理を、私は次の優れた記事から得ました。

日本では、「公」と「私」との区別の使い分けが長い伝統として存在してきました。しかし、「個人」としての発言の歴史はまだ浅いのです。「公」と「私」との間に「個」が存在する。というよりは、個人こそ、私的な人格(private person)と公的な人格(public person)とを結ぶことができる人格(personality)そのものであり、それが自己を表現する働きをしている。こう言っていいかと思います。このように見ますと、私語と公語との分裂が、現在の若い人たちの間に見られるのは、この二つの狭間にあって、二つをうまく結びつけることができない。すなわち、公的と私的との間に存在する個人としての自分を見いだすことができない。こういう悩みを持つ若い人たちが多いことを意味しています。現在この国の若い人たちが直面している問題の一つが、この「公」と「私」との分裂です。しかもこの分裂は、その解決が見いだされないままに、若い人たちだけではなく、現在の日本社会全体における深刻な問題になっているのです。
(「コイノニア」http://www1.ocn.ne.jp/~koinonia/koen/chap3.htmより)

ではいったい「私人」と「個人」とはどう違うのでしょうか? これを私は学生にこう説明しています。クラブに入った時に、あなたは、「さあ、これからはクラブの1員なのだから、自分勝手はできない。自分を殺さなければ」、こう考える人がいるなら、その「自分」とは私人のことです。これに対して、「さあ、クラブに入ったのだから。これから大いに自分を発揮して活躍しよう」、こう張り切っているのなら、その「自分」は個人です。クラブを強くするには私人は殺さなければならない。この場合、「公」と「私」は対立します。しかし、クラブを強くするためには、自分の個性を発揮しなければならない。なぜなら、クラブという共同体は個人で成り立っているからです。個人が力を合わせて個性を発揮しなければそのクラブは強くなれません。これはスポーツでも演劇でも音楽でも同じです。個人と私人、このふたつは、集団との関係ではちょうど逆に働くのです。(同上)

こういうことは、物事の整理がきちんとついている方には当然かもしれませんが、自分としてはとても明確で分かりやすいまとめでした。「公」と対立するのは「私」、そして「個」はその両者をつなぐように働く。



これを先のマスメディアの話につなげると、つまりこういうことになります。マスメディアは「公」の文体でしか語らない、誰も「一人の人間」としてその内容に責任を持たない。一方インターネットは「私」の文体で語ることができるメディアであり、人はそこで自分の言葉に「一人の人間」として責任をもつことができる、と。内田さんの話はそのようにまとめることができるでしょう。これはそれなりに理解できる話です。



しかし、本当に責任のある言葉とは、上の分類でいうところの「個」の文体で語られるべきなのではないかと私は思うのです。インターネット上であっても「公人」としての氏名をあきらかにし、「公」の視点を忘れずに、かつ一人の書き手として自由に*2ものを書いておられる内田さんの言葉は、十分以上に「個」としての言葉であると思うのですが、果たしてネット上の文章がことごとくその要件を満たすのかといわれるとはなはだ疑問です。ネット上で人はもっと「個」として振る舞う必要がある、以前そのような記事を書いたように記憶しますが、このことは再度述べておきたいと思います。



一方で、現在のマスメディアが「公」としての文体にはまりこんで創造性を失っていることは全く事実だと思います。
一例

今日、記者志望の若い方と話していました。かつて大手新聞の記者として仕事をしていた方ですが、やめたきっかけは同僚の20代前半の女性記者の過労死だったそうです。20代も、30代、40代、50代も、年代に関係なく無意味なまでの激務に倒れてゆく…。
「新入社員の4月1日が、一番頭のいい時。以後、自分の頭で考えて物事を判断するのではなく、上から命じられた業務を、朝から晩までひたすらこなす、ただの組織の歯車になってしまう。全体主義もいいところ」と。「記者クラブの中で働かされている記者も『被害者』なんです。」
同僚の若い女性記者の過労死に際しても、皆、感情をあらわさず、お通夜に出た後は、また、サツ周りに散ってゆく。乾ききったふるまいにショックを覚えたが、そこに追い打ちをかけたのが上司の言葉。「仕事の途上で死ねた、本望だっただろう」。何を言うか、と激しく心の中で反発した、という。
こんな過酷な労務環境でも、仕事の内容に意味や価値を見いだせたら、やめなかったかもしれない、という。「でも、実際は、官僚の発表する情報を垂れ流すだけ。警察や検察の情報に関してはひどかった。嘘の情報でもなんでも垂れ流す。現場で見てきたから、岩上さんの言うことが事実と知ってます」
http://togetter.com/li/12022(本日のホッテントリより)

確かに、マスメディアという「公」の場で「私」の言葉・文体が許されない、それは真っ当なことだと思います。しかし「個」としての発言は「公」という場だからこそできるのではないか、そしてそのことを多くの人が忘れていたり気づかずにいることの方が、ひょっとしたら労働環境の過酷さ以上に問題なのではないかと思います。公正中立・客観性、という言葉にとらわれて、「個」という立ち位置を見失っていること。そこにこそマスメディアの凋落の大きな原因があるのではないでしょうか。



そしてそれは、さらに振り返って言えば、今日、誰もがそれぞれの仕事場においてつきつけられている問題であるという気もします。「個」としての自分の立ち位置・振る舞いについて、考えなおすこと。そこに、今日マスメディアに求められ、さらにいえば我々自身についても求められる視点があるように感じています。

*1:言葉の力を「ナメ」て、定型にはまりこんでしまったメディア・ジャンルは、創造性を欠いた結果として、力や才能のある書き手からそっぽを向かれ、滅びていく。文学の歴史の中で何度も繰り返されている出来事だと思います。近代だけをとっても、俳諧→俳句→近代俳句、といった展開が、たとえばその一例です。

*2:すなわち責任を自覚して

ザ・スミスの歴史

ロックの歴史というところがブクマに上がってて、まあそれはそれで良いのですが、ザ・スミスの項で引用されてる"Cemetery Gates"の訳があんまりなので、一言苦言を。イヤだなあ、こういう高齢者的指摘、と自分でも思うのですけれども。



元歌詞の該当部周辺を少し引用します。*1ある晴れた日に、友人と墓地で会う…という話です。

So we go inside and we gravely read the stones
all those people all those lives
where are they now ?
with loves, and hates
and passions just like mine
they were born
and then they lived and then they died
Whisch seems so unfair
and I want to cry

("Cemetry gates",The Smiths,1986)
※太線部が引用された部分

ざっと訳してみますね。

 そして僕らは(墓地の)中に入り
 厳粛に(gravely)に墓石(gravestone)の墓碑銘を読んだ
 これらの人々は、その人生は
 今どこに?
 僕と同じように
 愛し、憎み、
 心揺さぶられて、
 彼らは生まれ、
 生き、そして死んだ。
 それがとても不公平なことに思えて
 そうして僕は泣きたくなった

さて、これが「ロックの歴史」ではどう訳されていたかというと、

「彼らは生まれ 生き そして死んだ なぜだかとても不公平な気がして 僕は泣きたくなった」
Byセミテリー・ゲイツ
(ザ・スミス(The Smiths)モリッシーによる弱者の反逆)より引用

…となっています。



別にそれほど大した違いはないじゃん、と思えるかもしれませんが、「なぜだかとても」という接続はちょっといただけない。ひどい。安易すぎます。



ひょっとしたら、"Which seems〜"を"It seems〜"と聞き違えたのかもしれないけど*2歌詞の流れからいって、ここでunfairに感じた理由が当人にとって「なぜだか」といった『不明な理由』であるはずがない。自分と同じように生きた人々が、自分と同じように今ここにいないことにunfairを感じて、そのunfairが我ながら奇妙で理不尽であることは理解しているからseemと弱めて表現しただけであって、このseemは「なんか〜ぁ○○なカンジ?てゅーか、△△みたいな?」じゃないんですよ。*3そこを「なぜだか」とつないでしまうのは、単に訳において安易なのか、Cemetery Gatesという曲を聴いてないか、理解してないか、 その一行だけどこかのひどい評論家の文章から引っ張ってきたか、あるいはその全部か……いずれにせよ、余り褒められたものではない事情があるのではないかと思いますが、できれば再考願いたいところです。



ちなみに、このunfairがまた皮肉(というかhumour*4という方が正確か。)なニュアンスを帯びるのは、このアルバム全体が「死」への傾斜によって貫かれているからです。*5つまり、死者を前にして「僕たちが生きていてあなた達が死んでて、可哀想ですね」と言ってるのではなく、sunnydayを見てdreaded(怖い、気色悪い)としか感じられない鬱屈した青年が、綺麗に整えられた墓石を見ながら「自分らだけ死んでるなんて不公平DA!」とまでは言わないまでも、「なんかズッルぃよなぁ…(泣)(Which seems so unfair I want to cry)」というようなニュアンスを含んでくるわけですね。



引用者はこの辺りのことを本当に理解してこの一節を選んだのか、それにしても訳のずさんなことよ……とちょっと悲しくなった連休中のできごとでした。



ああ、またなんか師匠に突っ込まれそうなネタを書いてしまったぞ、と。
師匠元気かなー…。*6

*1:まあ、もともと徹底してsense of humour に満ちた彼の歌詞を日本語訳する困難というのはあるわけですが…

*2:ググるとそう誤って書いているサイトがあった。だが、元のアルバムを確認しても、歌詞は"Which"となっている。ちなみにザ・スミスはオリジナルCDに必ず律儀に全曲の歌詞カードを付けて(多分Morrissey的には『詩集』だからだろう)いたので、確認が可能なのです。

*3:要するに、「なぜだか」が不公平にかかっちゃマズいわけです。従って、「とても不公平な気がして なんだか僕は泣きたくなった」なら可、と言い換えても良いですね。

*4:イギリス人の「ユーモア」については、ここなど参照。

*5:一曲目&アルバムタイトル曲"The Queen Is Dead"のラストでは、「人生はとても長い、お前が孤独なら。」とうたわれ、3曲目のタイトルは「もう終わりだ、って分かってる。"I Know It's Over"」、5曲目がこの『墓地でデートするゲイ・ボーイズ』の歌、で、7曲目「心に茨を持つ少年」ときて、9曲目で「あなたとドライブしながら2階建てバスが突っ込んできたら、こんな幸せな死に方ってない」、「決して消えない光がある"There Is A Light That Never Goes Out"(=『死』という希望)」…とうたう……まあそういうアルバムなので。

*6:いつの間にかブログのプライベートモードが取れて、オマケに昨日付で更新してるようなのでお元気なのでしょう。(以下私信)すいません、こないだ2泊3日で東京でしたm(__)m。…まあ研修みたいなヤツで、暇は全然なかったんですが。「いつか飲もう」という話、まだ一方的に覚えてますよー。

鳩山とオバマ

オバマ大統領の就任時の支持率……68%
鳩山総理大臣の就任時の支持率……77%




ちなみに、二人ともそれぞれの国の歴代支持率では2位。
アメリカの1位はJFK(72%)、日本はコイズミジュンイチロー(85%)……



1位ケネディ、2位オバマ
これは、まだ分かる。
でも
1位変人、2位宇宙人
なんというか…
確かに不可解な国民ではある。

体罰論…というか、どう見ても皮肉

体罰は教育でしょうか?
少なくとも、現在の法律下では完全に否定されている*1にも関わらず、歴然と現場には風潮として残されているのが「体罰」や体罰信仰です。だからこそ、引用先に引用されてるような信仰告白ブログ(「体罰の会」!)が登場したり、下の引用先(「女教師ブログ」"体罰は教育ですか?−オフコース、イエス!")のようにそれを皮肉ったエントリがいつまでも書かれることになるわけですね。

もちろん体罰には、すぐれた教育効果が存在する。殴られるのが怖ければ、必死で頑張る子どもがいるのだから。殴打の恐怖におびえながら百マス計算をものすごい速さでこなしていく子どもたち。なんてシュール。
ただし、最悪の事態(つまり事故)が起こってしまったら何の意味もない。そこで教育可能性は終わってしてしまうからだ。だから体罰をするときには「最悪の事態を回避するシステム」が必要となる。
そのシステムは、例えば、第三者が監視するとか、監視カメラを設置するとか、教室をガラス張りにするとか、いろいろな案が考えられる。しかし、コストが抑えられて、しかも「子どもの主体性」が養われるもっとも良い方法がある。
私は、子どもに自衛のための暴力を認めることを提案したい。
(「女教師ブログ」http://d.hatena.ne.jp/terracao/20090916/1253036450

引用一行目の「教育」には、カギ括弧がつけられた方が良い、と思います。けれど、言いたいこと自体は分かる気がします。ちょっと自分なりに言い換えてみますね。



つまり、体罰という現象において、殴る側は自分が殴られることを一切考慮していないですよね、ということを、女教師さんは脇から指摘したかったのだと思います。そこにはある非対称性がありますよね、という。そこを、このエントリは皮肉っているわけですね。というのは、体罰肯定論者の多くは、「反撃されること」を前提としていないから。
彼ら彼女らが、もし本当に(心の底から)「有形力の行使には教育的な力があります」と主張したいのならば、その人々はまず己自身にこそその「教育的暴力を振るわれたい」と主張しなければおかしいですよね。まあ、ご自分は立派な大人で、悔い改めることなど何一つなくて無誤謬で、そして他者から感化や示唆を与えられる可能性など皆無だ、とでも主張したいというならともかく。そういう人が、たとえば約束の時間に遅れた、子供との約束を破った、忘れ物をした…そういった時に「私を殴れ!そうでなくてはお前と抱き合う資格など私にはないのだ!」…って、まるでメロスのように叫ぶとすれば、一応そこには理屈が通っていなくはないのですが、まああまりそういう人を見たことがない。
とするならば、論理的に考えてそこには二つの可能性しかない。一つは彼らが「本当は体罰に教育効果なんてない」と考えている可能性。(それは、おそらくレアケースとしてのみ存在するでしょう。)そしてもう一つ…おそらく事象の大半を占めると思われるのは、彼らが半ば無意識に、そして半ば本気で、「私の体罰は良い体罰」と信じている、という可能性です。曰く、「大人が子供に対して行う場合体罰は有効」、曰く、「そこに心の絆があれば、体罰は愛の鞭となる」、曰く、「程度を知り、加減を知って、躾として行っているから、暴力ではない」…etc。
女教師ブログさんの皮肉が標的としているのは、まさにこの一派の人々なのだと思います。まさか言葉どおり、本気で「殴る教師vs武装生徒の仁義なき戦い」がベストだなんて思ってるわけないと思うのですが、どうもコメント欄とか見てるとその思いが揺らぎそうになるので、一応書いておきます。女教師さんが本当に問題にしたいのは、体罰肯定派の、その恐ろしい勘違いなのではないでしょうか。*2



これを踏まえて、体罰についての私見を少し書き留めておきたいと思います。お暇な方のみ続きをどうぞ。



………
……
本当に暇なんですね?



じゃあ書きます。
女教師さんは「ある種の人々にとっては大変残念なことかもしれないが、体罰やしごきと、ふつうの『教育』なるものは連続している。」…と書いておられますが、私は「ある種の人々にとっては大変残念なことかもしれないが、『教育』の本質と『暴力』の本質は相容れないものであり、そして『体罰』は『暴力』とのみ連続している」と考えます。
体罰という言葉が意味するものは、条件反射による動機付けであり、それは、事態の振り返り・ルールの内面化・道徳的反省、といった『教育』とは一切関係がありません。たとえば、昔読んだ『チョコレート中毒者の治療』なるもの……「口いっぱいにチョコレートを頬張らせ、チョコレートを食べている映像を見せながら、飲み込もうとしかけると微細な電流が流れ、最後にすべてのチョコレートをバケツに吐き出させる」といった方法……それはなるほど彼の行動傾向を変えはするでしょうが(心のそこからチョコレートが嫌いになる、といった形で)、このおぞましい治療を「教育」及びその「効果」と呼ぶのは正当でしょうか? 殴ったら、殴られた物が物理的に変形した……それを「教育」というなら、粘土でも立木でも空き缶でも、あるいは夜の校舎で窓ガラスを「教育」してまわったりすることもできそうですが、そういうものを普通「教育」とかその「効果」と言ったりはしません。



しかし、一方で、音楽を楽しみ人生を楽しむ両親に育てられた子どもが、自然と、人生を愛し音楽を楽しむ子どもに育ったとすれば、それは言葉の正しい意味での「教育」というべきでしょう。信頼、共感、尊敬、憧憬、人が人に自然と惹きつけられる気持ち、何者かになりたいと強く願うこと、努力すること、達成する喜び、動機の内面化、持続……etc。支配と隷属でなく、憧れと共感、信頼と協力によってのみ、人は自分一人では届かなかった高みに到達することができます。現実の教育が、常にそれら一切のものを含んでいるとは言いませんが、そこをベースにしていない教育は、教育に名を借りた洗脳、あるいは暴力に過ぎないと私は思います。



子どもの時の「体罰」体験を、美化して語る大人は沢山います。それらを嘘だとは言いませんが、私はそのほとんど全ては「体罰以外の部分による教育の成果である」として説明がつくと思います。曰く「○○先生は、やたらと生徒を殴ったけど、その分真剣に自分たちと向き合ってくれた」、曰く「○○先生に殴られた時、先生の目にも涙が浮かんでいた。それで自分はハッと目が覚めた」、曰く「悪いことを他の適当な大人の様に言葉でぐちゃぐちゃごまかすのでなく、バシっと殴って注意してくれたことが、自分の心に沁みた」……etc。私は確信を持って言いますが、これらの先生はたぶん殴らなくてもそもそも良い先生なのであって、殴ったから良い先生なわけではない、と思います。
簡単に思考実験をしてみましょう。あなたが学生時代に一番嫌いだった先生を思い浮かべてみてください。別にその人が体罰教師であってもなくても構いません。そして、自分が何かして、その先生に自分が体罰を振るわれた、という情景を想像してください。さて、そのことであなたには、その先生への信頼感が湧いたりしますか?その先生のことが好きになったり、この人の言うことは大切だという思いが湧くとか、そういうことが、本当に想像出来ますか?
その上で、再度考えてください。体罰そのものに教育効果があるという考えについて、あなたはどう考えますか?



良い先生が振るうのは良い体罰で、悪い先生が振るえば悪い体罰ですか?



私は、体罰を振るうけれども生徒に信頼されている『良い先生』のほとんどは、実は体罰など振るわなくても十分生徒に信頼される『良い先生』なのだろうと思います。逆に、何かが足りない『少し駄目な先生』が、体罰を振るったところで魔法のように良い教育力を発揮したり、生徒が見違える様に言うことを聞いたり…なんていうことも無いと思います(それどころか、生徒が表面上言うことを聞くせいで向上心を失ってどんどん本物の『ダメ教師』になってゆき、ますます生徒の信頼を失っていくケースの方が多いのではないかと思います)。



私が教育現場で唯一許されると考えている「有形力の行使」は、「それ以上の物理的な暴力から子どもを守る緊急の必要性がある場合」くらいです。*3まして、「罰」として有形力の行使を用いる、なんてことをすべての教師に許容すべし、などという暴論には、おそろしくてまったく賛成できません。いくら基本的には人間を信じてる私でも、そこまで教師一般を信じられるほど脳天気なお人好しにはなれそうもありません。



体罰それ自体の「教育効果」は、たぶんゼロどころかマイナスだと思います。まあ、マイナスどころか絶対零度みたいな教育しかできない教師が、体罰をすることでどうにかドライアイスくらいの教師をしている……というケースも、一応想像できなくはないですが(その場合、そもそもそんな人間の採用に関わった人間が、速やかにその責を負うべきだと考えますが)、普通の場合、体罰は百害のみあって一利もない、体罰によってできることで体罰以外の手段で達成できないことはなく、体罰によることで失われるものは遥かに大きい、体罰を明白に禁止している現行の法律は、まったく正しい、と考えています。
(以上)




追伸
ちなみに、先にお詫びを申し上げておきますが、最近諸事情により余りネットにアクセスする時間が取れません。ご意見には可能な限り速やかにお返事したいとは思っていますが、思いがけず時間がかかっても怒らないでください。



追伸2
ブクマコメントにお返事。
「では電車で騒ぎまくる幼児を暴力抜きでおとなしくさせる方法を教えてください。」
そういう状態にならないように普段からきちんとコミュニケートしルールを共有するというのが教育なのであって、気分次第で殴ったり甘やかしたりしてさんざん手の施しようもないほどひどい状態にしてから「さあ躾けろ」と開き直る態度というのはいかがなものかと思いますよ。



と返すのもあんまりなので、答を一つ。
連れて電車降りたらどうですか?
で、好きなだけ騒がせたあとで、コミュニケートが取れる状態になってからゆっくり話す、と。
「そんなことしてる暇ねえ」とか「忙しい」とか言うのは単なる大人の側の都合なわけで、そうやって自分の都合だけ押しつけるんだったら、結局やってることは子どもと同じということにならないですか?

*1:「学校教育法」第11条:校長及び教員は、教育上必要があると認めるときは、文部科学大臣の定めるところにより、児童、生徒及び学生に懲戒を加えることができる。ただし、体罰を加えることはできない。

*2:まあ、こんな風に解説されてしまうのはむしろ不本意であるかもしれないし、そこは申し訳ないと思いはするのですが。

*3:まあ、たとえば窓枠に乗って遊んでる子どもがいたら、強引に手を引っ張って引きずり下ろしても可、というレベル。