説明会について

事後報告、ではないですけれど(誰も待っちゃいねえ)。


説明会に「謎」を仕込むぜ、って考えてた割には、前日にヘタれて「キーワード」を提示するに止まりました。まあ、「なぜこれがすべてに繋がるキーワードなのか」という「謎」になってるという意味では方針を変えたわけではないのですが、「謎で引っ張る」というよりは「キーワードというもののもつ(一種まやかしの)求心力で引っ張る」方向性になった観があるのは否めないところ。その辺がつまり、ストーリーテラーとしての自分の能力に自信がなく、ヘタれた部分なわけです。



まあ、説明会というのは別に自己満足のためにやるわけではなくて他の人のためにやるものなわけですから、80点か30点のギャンブル路線(純粋な「謎」路線)を狙わずに、安定した60点路線(「キーワード」路線)を取ったのは別に間違いではないでしょうし、実際説明会後の質問も昨年より多かったので、それは一定の成功と言えるのでしょう。



まあ、まだ秋の説明会もある。頑張らねば。
ただこれ、「一番大事な仕事」の割に、仕事時間の大半はほかの仕事で埋まっていたりするため、クオリティ上げるには相当工夫するかプライベート削らなきゃいけないのが問題なんだよなあ。
変なの。
これに限らず、「なぜか『そういうことになってる』こと」って、なんかありますね。

「一発でつかんで、かつ届く」について

先日の記事で「中間層にヒットする、『一発でつかんで、かつ届く』」話を書いた。
昨日やはり小さな説明会があり、週明けに大きなのがもう一つあるので、覚え書きにかえて、少し続きを書こうと思う。
ちなみに、こうやって常体で書いてる記事はおおむね自分用の整理メモなので、たまたま訪れた人はそういう感じで、適当に読み流したりしていただけると嬉しい。
学校時代の校長先生とかは、やたらと朝礼とかで「3つの○○」というのを強調してたけど、個人的には「そんなにいくつも(毎週とか毎学期とか)3つの○○があったら大変、つか3つじゃねーじゃねーか」と覚めた感じで見ていた。まあ、「今日自分が話したいことには3つポイントがあって〜」ということを言いたかったのだと思うが、たいていはそういう矮小化した話ではなくて、あたかも「人生の肝心はこの3点に尽きる!」みたいな異様なテンションで語られたりするので、胡散臭さが否めないのであった。
まあ、自分がそういう胡散臭いレクチャーをする側になってみれば、話をまとめる意味で3つにしたがった気持ちはそれなりに分かるのだけれど、それでもやっぱり毎回「3つの〜」とやられると、聞いてる側もうんざりだと思う。
最近自分が考えているのは、「3つの〜」もいいんだけれど、そこに「ストーリー」を作るということ。簡単な構成意識と言ってもいい。いくつかレクチャーをしてみて、こっちの方が、聞いてる側の食いつきの真剣味とか、質疑の熱心さとか、理解度がいくらか良いような気がする。一定成り立った因果の連鎖がそこにないと、自分の理解がまず成立しないし、従って説明にも力が入らない。
言い換えればこれは、自分なりの「世界をどう把握するかのメソッド」ということ。因果の連鎖が無限であることはそれとして理解しつつも、そこに「意味」をあらしめるためには(あるいは「物語」を生成するためには、というべきか)因果の連鎖を一定範囲内で、かつ現実との齟齬が可能な限り小さくなるような切断が必要である、ということ。


それは、たとえば、似顔絵を描く際に必要なこと。人の顔を「映像」として捉えるのでなく、「物語」として捉えて、必要な情報を切り落としたりときには拡大したりして、ときには「実際の映像よりも実物らしい」ような記号を作り上げる作業。
あるいは、映画製作。ある「世界」の断片を、2時間半に集約し、編集して、そこに「物語」や「感動」を現出する行為。
あるいは、俳句。世界や人生の真実を、十七音に凝縮し再現する行為。


凝縮された断片が、同時に世界そのものであるような構造*1を作り出すための一つのキーは、「謎(ミステリー)」かもしれない。謎は、物語を紡ぎ出すエンジンだから。自分のキーワード→物語化には、まだ「謎」が足りない。来週の説明会では、その辺りをちょっと意識してみたい。

*1:フラクタル構造?

ドクターに関するコメント

金剛大阿闍梨2010年3月8日(ドクター・中松の発明BLOG)

先月、私はインドに訪問致しました。

チベット仏教最大宗派「ゲルク派」トップから「金剛大阿闍梨あじゃり)」の位を授与致しました。*1
魚拓


チベット仏教ゲルク派・ガンデン座主からのお知らせ(ダライ・ラマ法王日本代表部事務局、平成22年8月1日付)
 

彼は帽子を持参し、写真を撮らせてください、と私のところにいらっしゃいました。その彼の希望にそっただけです。

大変だねえ、発明世界一*2

*1:授与「されました」の誤か?

*2:自称

単なる日記

一日家。ときどき買い物。あと仕事。最近の休日はそんな感じで、それでいーのかよ、と。


過去いろいろとblogに書いていたことが、どうも仕事そのものになりつつあって、今は、言ってみればblog書く代わりに仕事しているような感じ。世の中というページに記事書く作業は、楽しいと言えば楽しいかもしれないけれど、ずしり、と重くもあります。


昨日は久しぶりに人前でレクチャーみたいなことする機会があって、ちょっと変なテンションでした。ダメダメでした。もう少し考えてやらないとダメです…。継続客相手の営業と、一見さん相手の営業のメソッドは違って、そしてその中間を狙うところには、そのどちらとも違ったメソッドが必要。前者には、「相手に届く」ことが必要だし、後者は「つかむ」ことが必要。そして中間には、「一発でつかんでかつ届く」ことが必要なんだなあ。



と、まあ、たまに書かないと突然アカウント消えてたりしても困るので、日記というか、メモ?書いてみた。意外と大事なこと書いた気もする。

マスメディアの凋落と自壊を防ぐには?

内田樹さんが、現在の新聞はじめ多くのマスメディアの凋落について、彼らの「思考の行き詰まり(限界)」について触れた興味深いエントリをアップしています。

新聞記事の書き手たちは構造的にある「思考定型」をなぞることを強いられている。
それは世の中の出来事は「属人的な要素」で決まるという思考定型である。
要するにこの世には「グッドガイ」と「バッドガイ」がいて、その相克の中ですべての出来事は展開しているので、誰がグッドガイで誰がバッドガイであるかを見きわめ、グッドガイを支援しバッドガイを叩く、ということを報道の使命だと考えているということである。

自分が新聞を取らなかったり、TVを見なかったりする理由(興味が抱けない理由)の一つに気づかされた気分です。言葉というものを「ナメた」メディアは、一見隆盛しているように見えても、決して長持ちしないと思います。*1



さらに、元のエントリは、そこから更に展開して、「個人」でなく「文体」が語るということの問題に切り込んでいます。たとえば定型的な週刊誌の煽り記事を読んでうんざりした気分にさせられる理由は、「文体」が語っていてそこに「個人」がいないからだ、と。そして内田さんはさらに、「個人」が「個人」として語ることができることがインターネットのアドバンテージだ、という話につなげていくのですが、私としては、そこに少しだけひっかかりがあります。
そして、そのひっかかりについて考えてみると、そこから、マスメディアの凋落に少しだけ歯止めをかける方向性が見えてくるかもしれない、あるいは見えないまでも、同じ問題に切り込む少しだけ角度を変えた切り口にはなるのではないだろうか、と考えたので、少しだけ休みを利用して書いてみます。




そもそも「組織」と「個人」の問題、あるいはもっと大づかみに「公・個・私」についての整理を、私は次の優れた記事から得ました。

日本では、「公」と「私」との区別の使い分けが長い伝統として存在してきました。しかし、「個人」としての発言の歴史はまだ浅いのです。「公」と「私」との間に「個」が存在する。というよりは、個人こそ、私的な人格(private person)と公的な人格(public person)とを結ぶことができる人格(personality)そのものであり、それが自己を表現する働きをしている。こう言っていいかと思います。このように見ますと、私語と公語との分裂が、現在の若い人たちの間に見られるのは、この二つの狭間にあって、二つをうまく結びつけることができない。すなわち、公的と私的との間に存在する個人としての自分を見いだすことができない。こういう悩みを持つ若い人たちが多いことを意味しています。現在この国の若い人たちが直面している問題の一つが、この「公」と「私」との分裂です。しかもこの分裂は、その解決が見いだされないままに、若い人たちだけではなく、現在の日本社会全体における深刻な問題になっているのです。
(「コイノニア」http://www1.ocn.ne.jp/~koinonia/koen/chap3.htmより)

ではいったい「私人」と「個人」とはどう違うのでしょうか? これを私は学生にこう説明しています。クラブに入った時に、あなたは、「さあ、これからはクラブの1員なのだから、自分勝手はできない。自分を殺さなければ」、こう考える人がいるなら、その「自分」とは私人のことです。これに対して、「さあ、クラブに入ったのだから。これから大いに自分を発揮して活躍しよう」、こう張り切っているのなら、その「自分」は個人です。クラブを強くするには私人は殺さなければならない。この場合、「公」と「私」は対立します。しかし、クラブを強くするためには、自分の個性を発揮しなければならない。なぜなら、クラブという共同体は個人で成り立っているからです。個人が力を合わせて個性を発揮しなければそのクラブは強くなれません。これはスポーツでも演劇でも音楽でも同じです。個人と私人、このふたつは、集団との関係ではちょうど逆に働くのです。(同上)

こういうことは、物事の整理がきちんとついている方には当然かもしれませんが、自分としてはとても明確で分かりやすいまとめでした。「公」と対立するのは「私」、そして「個」はその両者をつなぐように働く。



これを先のマスメディアの話につなげると、つまりこういうことになります。マスメディアは「公」の文体でしか語らない、誰も「一人の人間」としてその内容に責任を持たない。一方インターネットは「私」の文体で語ることができるメディアであり、人はそこで自分の言葉に「一人の人間」として責任をもつことができる、と。内田さんの話はそのようにまとめることができるでしょう。これはそれなりに理解できる話です。



しかし、本当に責任のある言葉とは、上の分類でいうところの「個」の文体で語られるべきなのではないかと私は思うのです。インターネット上であっても「公人」としての氏名をあきらかにし、「公」の視点を忘れずに、かつ一人の書き手として自由に*2ものを書いておられる内田さんの言葉は、十分以上に「個」としての言葉であると思うのですが、果たしてネット上の文章がことごとくその要件を満たすのかといわれるとはなはだ疑問です。ネット上で人はもっと「個」として振る舞う必要がある、以前そのような記事を書いたように記憶しますが、このことは再度述べておきたいと思います。



一方で、現在のマスメディアが「公」としての文体にはまりこんで創造性を失っていることは全く事実だと思います。
一例

今日、記者志望の若い方と話していました。かつて大手新聞の記者として仕事をしていた方ですが、やめたきっかけは同僚の20代前半の女性記者の過労死だったそうです。20代も、30代、40代、50代も、年代に関係なく無意味なまでの激務に倒れてゆく…。
「新入社員の4月1日が、一番頭のいい時。以後、自分の頭で考えて物事を判断するのではなく、上から命じられた業務を、朝から晩までひたすらこなす、ただの組織の歯車になってしまう。全体主義もいいところ」と。「記者クラブの中で働かされている記者も『被害者』なんです。」
同僚の若い女性記者の過労死に際しても、皆、感情をあらわさず、お通夜に出た後は、また、サツ周りに散ってゆく。乾ききったふるまいにショックを覚えたが、そこに追い打ちをかけたのが上司の言葉。「仕事の途上で死ねた、本望だっただろう」。何を言うか、と激しく心の中で反発した、という。
こんな過酷な労務環境でも、仕事の内容に意味や価値を見いだせたら、やめなかったかもしれない、という。「でも、実際は、官僚の発表する情報を垂れ流すだけ。警察や検察の情報に関してはひどかった。嘘の情報でもなんでも垂れ流す。現場で見てきたから、岩上さんの言うことが事実と知ってます」
http://togetter.com/li/12022(本日のホッテントリより)

確かに、マスメディアという「公」の場で「私」の言葉・文体が許されない、それは真っ当なことだと思います。しかし「個」としての発言は「公」という場だからこそできるのではないか、そしてそのことを多くの人が忘れていたり気づかずにいることの方が、ひょっとしたら労働環境の過酷さ以上に問題なのではないかと思います。公正中立・客観性、という言葉にとらわれて、「個」という立ち位置を見失っていること。そこにこそマスメディアの凋落の大きな原因があるのではないでしょうか。



そしてそれは、さらに振り返って言えば、今日、誰もがそれぞれの仕事場においてつきつけられている問題であるという気もします。「個」としての自分の立ち位置・振る舞いについて、考えなおすこと。そこに、今日マスメディアに求められ、さらにいえば我々自身についても求められる視点があるように感じています。

*1:言葉の力を「ナメ」て、定型にはまりこんでしまったメディア・ジャンルは、創造性を欠いた結果として、力や才能のある書き手からそっぽを向かれ、滅びていく。文学の歴史の中で何度も繰り返されている出来事だと思います。近代だけをとっても、俳諧→俳句→近代俳句、といった展開が、たとえばその一例です。

*2:すなわち責任を自覚して

ザ・スミスの歴史

ロックの歴史というところがブクマに上がってて、まあそれはそれで良いのですが、ザ・スミスの項で引用されてる"Cemetery Gates"の訳があんまりなので、一言苦言を。イヤだなあ、こういう高齢者的指摘、と自分でも思うのですけれども。



元歌詞の該当部周辺を少し引用します。*1ある晴れた日に、友人と墓地で会う…という話です。

So we go inside and we gravely read the stones
all those people all those lives
where are they now ?
with loves, and hates
and passions just like mine
they were born
and then they lived and then they died
Whisch seems so unfair
and I want to cry

("Cemetry gates",The Smiths,1986)
※太線部が引用された部分

ざっと訳してみますね。

 そして僕らは(墓地の)中に入り
 厳粛に(gravely)に墓石(gravestone)の墓碑銘を読んだ
 これらの人々は、その人生は
 今どこに?
 僕と同じように
 愛し、憎み、
 心揺さぶられて、
 彼らは生まれ、
 生き、そして死んだ。
 それがとても不公平なことに思えて
 そうして僕は泣きたくなった

さて、これが「ロックの歴史」ではどう訳されていたかというと、

「彼らは生まれ 生き そして死んだ なぜだかとても不公平な気がして 僕は泣きたくなった」
Byセミテリー・ゲイツ
(ザ・スミス(The Smiths)モリッシーによる弱者の反逆)より引用

…となっています。



別にそれほど大した違いはないじゃん、と思えるかもしれませんが、「なぜだかとても」という接続はちょっといただけない。ひどい。安易すぎます。



ひょっとしたら、"Which seems〜"を"It seems〜"と聞き違えたのかもしれないけど*2歌詞の流れからいって、ここでunfairに感じた理由が当人にとって「なぜだか」といった『不明な理由』であるはずがない。自分と同じように生きた人々が、自分と同じように今ここにいないことにunfairを感じて、そのunfairが我ながら奇妙で理不尽であることは理解しているからseemと弱めて表現しただけであって、このseemは「なんか〜ぁ○○なカンジ?てゅーか、△△みたいな?」じゃないんですよ。*3そこを「なぜだか」とつないでしまうのは、単に訳において安易なのか、Cemetery Gatesという曲を聴いてないか、理解してないか、 その一行だけどこかのひどい評論家の文章から引っ張ってきたか、あるいはその全部か……いずれにせよ、余り褒められたものではない事情があるのではないかと思いますが、できれば再考願いたいところです。



ちなみに、このunfairがまた皮肉(というかhumour*4という方が正確か。)なニュアンスを帯びるのは、このアルバム全体が「死」への傾斜によって貫かれているからです。*5つまり、死者を前にして「僕たちが生きていてあなた達が死んでて、可哀想ですね」と言ってるのではなく、sunnydayを見てdreaded(怖い、気色悪い)としか感じられない鬱屈した青年が、綺麗に整えられた墓石を見ながら「自分らだけ死んでるなんて不公平DA!」とまでは言わないまでも、「なんかズッルぃよなぁ…(泣)(Which seems so unfair I want to cry)」というようなニュアンスを含んでくるわけですね。



引用者はこの辺りのことを本当に理解してこの一節を選んだのか、それにしても訳のずさんなことよ……とちょっと悲しくなった連休中のできごとでした。



ああ、またなんか師匠に突っ込まれそうなネタを書いてしまったぞ、と。
師匠元気かなー…。*6

*1:まあ、もともと徹底してsense of humour に満ちた彼の歌詞を日本語訳する困難というのはあるわけですが…

*2:ググるとそう誤って書いているサイトがあった。だが、元のアルバムを確認しても、歌詞は"Which"となっている。ちなみにザ・スミスはオリジナルCDに必ず律儀に全曲の歌詞カードを付けて(多分Morrissey的には『詩集』だからだろう)いたので、確認が可能なのです。

*3:要するに、「なぜだか」が不公平にかかっちゃマズいわけです。従って、「とても不公平な気がして なんだか僕は泣きたくなった」なら可、と言い換えても良いですね。

*4:イギリス人の「ユーモア」については、ここなど参照。

*5:一曲目&アルバムタイトル曲"The Queen Is Dead"のラストでは、「人生はとても長い、お前が孤独なら。」とうたわれ、3曲目のタイトルは「もう終わりだ、って分かってる。"I Know It's Over"」、5曲目がこの『墓地でデートするゲイ・ボーイズ』の歌、で、7曲目「心に茨を持つ少年」ときて、9曲目で「あなたとドライブしながら2階建てバスが突っ込んできたら、こんな幸せな死に方ってない」、「決して消えない光がある"There Is A Light That Never Goes Out"(=『死』という希望)」…とうたう……まあそういうアルバムなので。

*6:いつの間にかブログのプライベートモードが取れて、オマケに昨日付で更新してるようなのでお元気なのでしょう。(以下私信)すいません、こないだ2泊3日で東京でしたm(__)m。…まあ研修みたいなヤツで、暇は全然なかったんですが。「いつか飲もう」という話、まだ一方的に覚えてますよー。

鳩山とオバマ

オバマ大統領の就任時の支持率……68%
鳩山総理大臣の就任時の支持率……77%




ちなみに、二人ともそれぞれの国の歴代支持率では2位。
アメリカの1位はJFK(72%)、日本はコイズミジュンイチロー(85%)……



1位ケネディ、2位オバマ
これは、まだ分かる。
でも
1位変人、2位宇宙人
なんというか…
確かに不可解な国民ではある。