「空気系」についての一考察

なつみかんさんのとこで「空気系」という言葉を知る
(1)「ARIA」が描く「空気」以上の何か(「なつみかん」)
その元ネタ
(2)『空気系』とでも呼ぶべき作品群について。(「樹海エンターテイナー」)

よつばと!』、『あずまんが大王』、『ARIA』、『苺ましまろ』、そして『ヨコハマ買い出し紀行』。

僕はこの辺りの作品群に、とても近いものを感じるのです。それは、物語全体を通した主題、テーマというものに起承転結を持たない点です。違う言い方で言うならば、1話だけでも、その主題がきちんと描写されている、ということになりますか。
  (中略)
ARIAヨコハマ買い出し紀行は似ていると感じている人は多いみたいで、両方とも『ヒーリングコミック』という括りでまとめられる事があるようなのですが(調べて初めて知った)、他の作品をここに入れてしまうと、「苺ましまろはヒーリングコミック」となってしまって、うーん? となってしまうので(笑)、新しい括りで物を考えてみたいと思います。ここでは仮に『空気系』という名前で呼ぶことにしましょう。

空気系の定義はこんな感じでどうでしょう。
 1.物語全体を通したテーマにクライマックスシーンを持たない
 2.その仮想世界・仮想空間の雰囲気を描くことに重点を置いている

空気系の一部をヒーリングコミックと呼ぶとすれば、何となく良さげな感じもします。この定義だと、『ぱにぽに』(マンガ)は空気系ではないが『ぱにぽにだっしゅ!』(アニメ)は空気系、という面白い分類になりますね。『ぱにぽにだっしゅ!』がやたらと人気があったのも、この主題の描写に関する部分の寄与があったんではないかという見方をすることが出来ます。『げんしけん』なんかも空気系と呼んでもいいかもしれません。あれは一応笹原が主人公扱いなのでクライマックスが一応あるのが難しい所ですが。(引用は(2)より)

これについて、ご本人も
 ・この定義では、たいていの4コマやギャグも入ってしまう?
 ・この「空気系」の何が我々の琴線に触れるのか?(何も起こらないという安心感?)

またコメントでも
 ・エッセイ(含エッセイ漫画?)との違いは?
なつみかんさんでは
 ・カテゴライズすること自体の意味は?(カテゴライズ→タグ化)
 ・ストーリーは薄いが「充実した時間」を描いていることに注目して欲しい

……などの問題が揚げられています。いずれも重要な指摘かな、と。

これら現役の読み手の皆さんに互するほどの能力は私にはもはや無いのですが、一つ考えたことを言わせて頂くと「これはストーリーの有無の問題ではないのではないか?」ということです。*1
たとえば「ヨコハマ買い出し紀行」は明らかに「アンチクライマックス」や「ストーリー無し」の作品ではありません。あの作品に登場する一人一人のキャラクターにはそれぞれ人生があり、また一人一人の物語があります。それぞれの人はそれぞれの物語を生きているわけです。それはまったく画面に姿を現さないアルファのご主人様である「マスター」にしても然り。もちろん「ストーリーに重点が無い(かもしれない)」ということは否定しませんし、「世界を書くことに重点を置いている(かもしれない)」ことを否定するつもりもありません。しかし「テーマやクライマックスがない(物語がない)」から「空気」なのだ…という議論の進め方にはどうしてもある種の危うさを覚えます。「物語」は厳然としてあるのであり、ただその「物語られ方」が我々が期待する「ハリウッド的な語り」のあり方と異っているため、一見そこには「物語がない」ように見えてしまうだけなのではないでしょうか。
確かにそこには「主人公らしい主人公がおらず*2、事件らしい事件は無く*3、ドラマらしいドラマも*4、行動原理らしい行動原理も*5、人間関係らしい人間関係も*6、クライマックスらしいクライマックスも*7無い。その意味で我々の目から見るとどうしてもそこには「いわゆる物語」が無いように見えるでしょう。しかしそこには独自なドラマ観、行動原理観、世界観、文法、人間関係観…ひいては物語観があります。決して「反・物語」的ではない。「脱・物語」的でも必ずしも無い。強いて言えば「脱・いわゆる物語」的というべきでしょう。

そう考えてみた時に、それらとギャグマンガや4コマとの違いがよりはっきりするのではないかと私は思います。ギャグや4コマは基本的に断片であるという性格上『ストーリー(物語)』を志向しません。つまり、それは、ジャンルとして正しい意味で「反・物語」的です。
もちろん近年『世界』を描く4コマや話が進行しキャラクターが変化していくような続き物、『ストーリー(物語)』志向の4コマはあるわけですが、4コマが本質的に断片である以上『ストーリー(物語)』を語ればそれは単なる『ストーリー(物語)』にしかならない。*8それに対していわゆる「空気系」の作品は、たとえて言えば「異文化の持ち主によって語られた散文、翻訳小説のようなもの」に近いと思います。自分たちが期待するような『ストーリー』は持たないが、それ自身に内在する独自な『物語観』を持ちそれ自身のスピードと物語法則に基づいて語られた物語。それを見る我々の目線は、たとえば小津映画を初めて見た異邦人のようなものなのかもしれません。小津映画にだってきちんとストーリーはありクライマックスはあるわけですが、縁側に座って会話する老夫婦を、真横から長回しするような「演出」になじみがなければ(我々にとってすら、それはすでになじみ薄い演出なわけですが)、そこに我々はある種の「空気」が漂い始めるのを感じるでしょう。

ヨコハマ買い出し紀行」を初めて読んだ時の「空気」感に近い物は、たとえば初めてスペイン映画「ミツバチのささやきビクトル・エリセ監督作品を初めて見、広い野原の片隅の農家を見下ろす姉妹、そして一人でそこをおとずれた少女アナが一歩一歩たどたどしくその野原を越えていく姿をずーっと長回しで取るカメラワークを見た時の「空気」感に近い。初めて見た時の印象は「なぜこんな無意味な…しかし美しい風景だけをえんえんと撮るのだろう?」「はっ…実はこの映画の目的はこの『美しい風景そのもの』なのではないだろうか?!」みたいな感覚に近い。もちろん風景の美しさが監督の演出意図によるものであることは論をまちません。しかしその映画が「それを目的としている」と考えるのは、映画の目的というものを余りに狭く捉えた、ハリウッド的視線に過ぎないと批判されるでしょう。「空気系」な作品の主目的が「空気」だ…という議論にも似たような危うさを私は感じます。

あるいは、別な例をあげます。「雨月物語」には、仮に分類するとホラー…となりそうなお話が沢山入っていますが、それが我々の知っている「ホラーの文法」に則っているかというとそれはやはり少し違う。確かな恐怖はあるものの、恐怖の実体もそれを効果的にするための仕掛けもハリウッド的なそれとは異なる。そしてそこにはやはりある種の「空気」が漂っています。それら「通常の文法と異なる文法を持つ作品」の魅力を「空気」と言ってしまうと、ずいぶんと曖昧で実体のない概念を作ることにしかならない、という危険はないでしょうか。その意味で「ヒーリング系」というのはまだ、それらの志向する「物語性」に名前をつけようという試みであるとは思いますが、たとえば「ヨコハマ買い出し紀行」に例をとるなら、崩壊し廃墟となり滅びかけている文明がどうして我々を「癒す」ための背景世界として選ばれなければいけなかったか、ということ自体が問われなくてはならない。たとえば古いたとえになりますが、同じ理由で「風の谷のナウシカ」だって「ヒーリング系」かもしれませんし、極論すれば永井豪の「バイオレンスジャック」だってその時代なりの「ある種の癒し」を目指した系の作品だったのかもしれない。そもそも「いかなる意味でも、それを読むことによって全く癒されない作品」というのはどういう作品なのか、とそういう問いかけも不可能ではないと思います。あらゆる作品は「ヒーリング系」なのか?定義というのはなかなか難しいものだと思います。

最後に、これら「空気」系の作品がなぜ我々の琴線に触れるのか、ということについて少しだけ触れたいと思います。それは、これらの作品の物語文法に、我々がどこかで知っている何らかの(今よく知っているのとは別の)物語文法に近いものがあるせいではないでしょうか。たとえば子供の頃読んだ絵本や、昔話、外国の神話など、様々な祖型(アーキタイプ)に備わるような物語文法、あるいは「日常」という名の“ゆっくりと繰り返されながら少しずつ変化していく何か”というような物語……そういった物がこれらの「空気」系、「いわゆる物語」を脱した物語たちがもつ文法の原型なのではないでしょうか。「いわゆる物語(ハリウッド文法による物語的?)」に飽き足りない我々が、それ以外の「物語」タイプを求め始めたときこういう系統の作品が生まれるのではないでしょうか。*9その意味では、「げんしけん」と「ヨコハマ買い出し紀行」を「空気」という視点で並べ論じることにも意味が出てくるのかもしれませんね。

…と書いてきて思いましたが、余りうまい説明じゃないですね。
とりあえず、定義というより問題提起をひとつ、ということで。

*1:以下は多分、初めて「ヨコハマ買い出し紀行」を読んだ頃から自分でもきちんと形にまとめたいと思わされていた(おそらく、あの当時にあの漫画を読んでハマった人々は大抵同じようなことを考えていたはず)ことで、ほとんど忘れかけていたようなことを書く機会ができたことに感謝したいと思います。

*2:誰が主人公であると断言が難しい

*3:そもそもそこには「変化」が無い。ただ「謎」は提示されているが、「謎」が断片でなかなかストーリーにならない

*4:何を見せるというポイントもはっきりしないし、すれ違い…などのささやかなドラマ文法が、ドラマティックな結果…たとえばすれ違いで出会えなかった為に決定的な違和を生じる、などをもたらすこともない。

*5:復讐とか報恩とか愛情とかそういう原理で動く人間が余りいない。

*6:一定の役割を持ちながら成長したりもするが、成長したから何が変わるということもない

*7:単行本一冊で何が変わったとかがなく、ある話が非常にインパクトが強くても、それが他の話に影響する度合いが希薄で結局焦点化されない

*8:それはたとえば連歌でありあるいは俳諧なのであって、散文ではない。

*9:たとえば「シャーリー」や「エマ」森薫作品は、その意味で私の感覚で『空気系ではない作品』なのですが、これに異論のある人ももちろんいるでしょう