日本人はそんなにも横並びがすきなのか?(「日本文化のかくれた形」を考える)

日本文化のかくれた形(かた) (岩波現代文庫)

日本文化のかくれた形(かた) (岩波現代文庫)

を相変わらずちょこちょこ読んでいます。冒頭にある加藤周一の論文の中で触れられている、日本的集団の「垂直性」と「水平性」について思うところがあったのでヒトコト。

(日本的集団の原型について、第一家族主義的集団であること、第二少数意見を排除する集団であること、に続いて)第三の特徴は、集団内部の構造が、しばしば、厳格な上下関係によって成り立っているということ。上下関係だから「垂直」の秩序ともいえるでしょう。しかし日本の「ムラ」集団の構造には、「水平」の面もあると思います。日本の伝統的な農村の中に、たとえば、若者や娘の集まりのように、横の関係もあった。古くから日本の「ムラ」の中には、「水平」の人間関係も入っていたわけで、「ムラ」の秩序は、本来、縦と横です。
(中略)ある面には「垂直」要素があり、ある面には「水平」要素があって、時と場合に応じて、どちらかの要素が強く出てくるということだろうと思います。そういう伝統的な「横」の構造からは平等主義が出て来やすい。「自由・平等・博愛」というときの「平等」は、たしかにアメリカ占領軍が、民主主義の原理として強調しました。しかしその前から、日本の集団の中に「水平」要素、一種の潜在的な平等主義がなかったわけではない。
(中略、平等主義が)徹底したのは、単に占領軍が押しつけたからではなく、元来こちら側というか、日本の土壌に平等要素があったからでしょう。そう解釈しないと、戦後日本の平等主義――経済的・社会的・文化的な――が十分説明されないと思います。殊に「平等」は徹底して、「自由」は徹底しない、という独特の組み合わせが、説明されません。「自由・平等・博愛」の「自由」、個人の自由の方は、伝統的な集団主義と真向から対立し、従ってタテ前の「自由主義」、人権尊重にもかかわらず、実際には日本社会に徹底しなかったと思います。戦後の改革が総じてアメリカの押し付けにすぎないと言う人は、非常に大ざっぱです。もちろんそういう面もあるけれども、改革の中で日本の社会に本当に定着した部分は、元々そういう地盤のあったものです。(前掲書より引用)

これをめぐって二つの会話を相方と交わしました。
一つは、相方のやっている習い事についてですが、一緒に習っている50代60代の方々と相方の感覚がどうも合わない。具体的に言うと師匠に対する対し方がどうもズレている感じがする、という話です。50代60代の方が、どうも余りにもざっくばらんというか、話を聞くに多分に「お育ちの良い」師匠に対する態度としては余りにもがさつな対応を取るということが、どうもうちの相方には気に触って仕方がないのだ…という話を聞きました。「TPOを考えるべきだ」という話は、内容的に私も同調できます。差別も区別もひとしなみに一緒くたにして何もかもコピー人間の群れみたいな状況にすることは、決して平等でもなければ権利の尊重でもない、むしろ少数を排除する全体主義に過ぎないと思います。*1
次に、ファッションの話題になりました。今度は「街にとけ込むような服装」という特集があった…という話題について相方は「どうして周囲に過剰に合わせようと妙に意識するのか、自分の着たい服を着るというのがファッションの正しいあり方ではないのか」と憤慨していました。これまた私は同感です。上に書いたのと同じ意味で、各自が自らの責任を意識することなく、周囲にただ同調しようとしすぎると、それは社会における全体主義的圧力として働くでしょう。それがたとえ「好きな服装をする」というただそれだけのことであっても、自分の権利を行使することが、社会的に自分たちの自由を守ることに繋がるという意識と責任感を持って行動すべきだと私は思います。しかしそこで、「TPOがどうだということを意識しすぎるのはいかがなものか?」と口に出してみて、初めてああ、と思いました。
この二つをごっちゃにしている人が多いのでは?
前者の50代60代の方は、『TPOがどうだと意識せず平等にすべきだ』と無意識にでも考えてそういう行動に出ているという可能性はないでしょうか。また後者の特集は『TPOを考えて行動することがベストだ』と思って、そのようなファッションを推奨しているのではないでしょうか。これらは明らかに間違った考え方です。しかし、なぜ間違っているのか、そしてどう考えるべきなのか、をきちんとその都度説明するのはなかなか難しいし、ましてそれを説明して相手の考え方なり行動なりを変えようとするとなるとそれは至難の業でしょう。しかし、上手にこれを説明する方法を考えてみれば、少しはその手助けになるかもしれません。


そこで、こんな説明を考えてみました。正しいか間違っているかは分かりませんが、考えるヒントとして。
日本的な横並び・平等主義…「出る杭は打つ」式の平等主義は、当然ながらそれだけでは社会を一歩も前に進めない考え方です。ではなぜそんなものが定着したのかを考えるとこれは身分制社会と一体になって初めて意味を持つのではないか。各自が与えられた「身分」そのものを道徳としてこれを固く守ることによって社会秩序を維持する社会では、身分の枠を越えようとすることはイコール社会秩序に対する抵抗であり、危険な行為です。従って、身分制社会というタテのシステムが成立している社会では、出る杭は打たれなければならない。その代わりそれは、今いるラインから「下回る」ことも許されない社会です。従って、武士「らしくないだらしない」武士、職人「らしくない不真面目な」職人、なども叩かれる対象となる、そんな形で社会秩序が維持されている社会。
一方、「自由・平等・博愛」な社会では、努力して人より先に出てその責任を背負おうとすることは大切なことです。従って「出る杭」を打つこと自体が社会的に悪になります。そして、「出る杭」として成功するためには一定の能力が必要であり、そのためには「努力」したり圧倒的な「才能」を持っている人間が社会に埋もれず、きちんち芽を出せるシステム…つまり機会平等な社会というのが絶対に必要となります。彼らの言う「平等」というのはそういう意味であって、能力のあるものが高い責任と、それに伴う高いリターンを得る「出る杭」になることは完全に「平等」なことなのです。
つまりまとめると、西欧的な「平等」は自由(with責任)を前提とする民主主義的な社会の必要条件であり、一方日本的な「平等」は封建的身分制社会の十分条件なのだということです。
今日我々は、「平等」ということを日本的に誤解したまま、形だけ民主主義的な社会の制度の下に暮らしている。もし我々が、今持っている「平等」観を捨てたくない…捨てられないのだとしたら、多分再び封建的身分社会に戻る他ないのではないでしょうか。

*1:徒競走、手を繋いでゴール、みたいな悪平等主義は、従って「戦後民主主義的」なのではなくすぐれて伝統的な、「『美しい日本』主義的」な光景と言うべきです。実際事実として、そういう妙な話が生まれてきたのが戦後すぐの時期でなく、妙な日本主義が復活してきた'80年代以降の話だということは指摘しておきます。