日本におけるリテラシー教育の不可能性

以前どこかで書いたつもりでいたけれど、調べると書いていなかったので、メディアリテラシーと教育について、まとめ&覚え書き代わりに書く。
まず、(1)ワードとエクセルで生徒を遊ばせれば「情報」教育だとか思ってる人々はちょっと置き去りにしておきたい。そんなものはコンピューター(というかソフトウェア)の活用練習に過ぎない。また(2)ニュース映像やコマーシャルの分析をして「メディア・リテラシー教育」と言ってる人たちも、それはそれで大切なことだと思うがちょっと問題としては枝葉に属するのでまあ置いておく。映像メディアは確かに分析素材としては面白いし諸外国で行われているその手の授業が成果をあげていることも重要なのだが、それらは本当は他の教科で知らず知らず行われているもっとおおきな「リテラシー教育」をベースに成り立っているので、それを理解せず日本に持ち込んでもおそらく失敗せざるを得ないと思う。
自分が取り上げたいのは、人間がこの社会で生きていくために必須な能力としての「メディアリテラシー」とその教育であり、それは(3)社会で生きていく為に情報を有効に活用する能力を育成する教育(に取り組む人々)とでも定義できよう。
(参考)

そもそも、リテラシー(literacy)とは英語の「読み書き」のための能力を意味しているが、1960年代までリテラシーは英語教育の一部として教えられ、明示的な問題となることはなかった。これが60〜70年代には「他教科の下支えをする基礎的能力の問題」と認識され、90年代には「社会に参加し、各自に与えられた役割を遂行するための能力を含むもの」と理解されるようになった。すなわち、著者の定義によれば、リテラシーとは「社会に参加する人々に力(empowerment)を与える能力」をいうことになる。
(『情報社会のリテラシーに関する試論』上村圭介著)

本能でなく学習によって可能性を拡大してきた我々にとって、「情報を活用する」ことは生きていく為の必須の能力である。
たとえば森の中で暮らす猿が、目の前に落ちてきた木の枝によって頭上にいる敵を発見するためには自分の中の情報データベースを組み合わせて瞬時に認識し判断する必要があるが、これもまた一種の「情報活用」でありリテラシーである。集団の中で相手の態度を、そこから受ける単なる印象でなく様々な文脈(コンテクスト)によって織りなされた表現(テクスト)であると考えて対処するのは社会活動の初歩であるし、更に自分の行動(テクスト)で何かを表現することで他者との間に関係(インターテクスト)を生み出し状況(コンテクスト)を望む方向にドライブしていく技術はすなわち政治である。今日多くのメディアを通して、そのような意味で様々な「政治」が暴力と言えるような圧力で我々の周囲を圧し飛び交っており(たとえば広告)、そのような「森」の中で我々が他者の政治から身を守り自らの望む生を実現していくためには、メディアにおける情報活用能力という意味でのメディアリテラシーが必要なのだ。それは単に能力や技術の育成を意味しない。能力や技術の学習を通して自らを哲学的懐疑の中に置くことである。それは、人間の尊厳を守る為の力を身に付けさせるという意味では、人権教育の概念に近い。
自分は何を望み何を望まされているのか、自分とは何か、社会とは何か、平和とは何か、幸福とは何か。これらについて分かったつもりになっている自分の理解をぐらつかせることが重要だ。自分の前にそびえ立つ権威の正当性を疑い、正当性という概念そのものさえ疑う。文化を疑い芸術を疑い、美を疑う。正義とは何か、真実とは何か、時間とは何か、空間とは何か。ひとつとして答のないことを確認しながら、それでも生きていく為に必要なことは何かを考える。誰もが関係と関係の狭間に生き、誰もが危うい生を生きていることを学び、そしてその儚い生を愛することを学ぶ。これら全てが語って教えることでなく、自ら考え学び取られなくてはならない。そういうことが必要なのだ。本当は。


しかし、残念ながらそういかない理由がある。これは日本の教育システムの根幹に関わる問題だ。そもそも日本の近代の教育は、一元的価値の刷り込みを最小の費用で行うための一種の洗脳システムの形式を取っている。そして、それはハードウェアとしての学校施設からソフトウェアとしての教育制度の隅々にまで行き渡った完成度で体系化されており、些細なことでは揺るがない(あるいは改変を許さない)状態になっているからである。
たとえばあなたが一人の教師であったとして、「生徒にメディアリテラシー教育を行おう」と考えたとする。その際周囲に対して、「たとえば生徒に『あらゆる権力を疑う力』を養います」と説明したとしたら、どう考えてもその試みに周囲の賛同を得るのは難しいだろう。なぜなら日本の教育システムは「教師という権威に生徒が盲従すべきこと」を前提として組み立てられているからだ(繰り返すがそれはソフト的にもハード的にも、である)。メディアリテラシー教育を日本で行おうとすると、まず学校という制度それ自体がその分析の対象とならざるを得ないし、それができないとするとメディアリテラシー教育自体が行えないに等しい。


では、日本の学校・教育システムを一度全て解体すればいいのか? というと、また難しい問題がある。


たとえば2000年、2003年に行われたPISAという国際学力調査。OECDに加盟する30の先進国における共通の学力調査で日本があげた成績は、数学・科学が1位、2位。読解力は残念ながら2位グループに止まったが、全体として日本の生徒の到達度は世界トップクラスである。(参考:wikiペディア「PISA」)しかしこの成果が同時に、諸外国で最も一クラス辺りの人数が多く対GDP比に占める教育費の割合が最も低いレベルにある国によって為されたということを知れば、更に驚かれるに違いない。

 本委員会で五月二十四日に、民主党笠浩史議員の提案の中にも、教育財政支出について、国内総生産、GDPに対する比率を指標とするということがございます。また同日、自由民主党町村信孝議員、元文部大臣も発言をされておりまして、それによりますと、日本は教育大国と私どもはそう思っておりましたが、GDPの資料を見ると、残念ながら日本は教育小国なんですというように、元文部大臣の発言ですから非常に重い発言でありまして、各国の国際比較が示されておりまして、私も二ページからその資料を提起しております。

 一つは日本の学級規模でありまして、海外よりも非常に大きい規模がまだあります。これは一目瞭然で、OECD参加各国の中では、日本は二番目に条件の劣悪さを示しております

 それから、もう少し具体的に見ていただきます。次の三ページ目、これは日本のGDPに占める教育費の割合であります。これは町村先生からも指摘がありましたけれども、GDPに対する教育費の占める割合は、OECD平均が五・三%なのに、日本はわずか三・六でありまして、初等教育においてはわずか二・七になっています。高等教育はもっと悪くなっております。これなんかを見ていますと、御存じのとおり、二十九カ国中二番目に悪いのが日本のGDP比の教育予算であります

 四ページ目に、日本のGDPに占める教育費の割合は年々減ってきております。これがだんだん減ってきている実態があります。それに比べて、アメリカあるいはイギリスはどんどんどんどん伸びていっているんですね。やはり国を挙げて教育を大事にしようという姿勢が、アメリカやイギリスでは近年さらに教育費を上げている実態というのがこれでわかるわけであります。(教育予算に関する国会質問(渡久山参考人 第10号 平成18年6月6日(火曜日))

GDP比で何が分かる、って意見もあるだろうけど、要するに国の経済全体の規模の指標であり我々が流通させた富の総量が我々の「豊かさ」の全体量だと仮に規定したとき、我々はその「豊かさ」のどれだけを教育に配分しているのかな?という疑問のものすごくざっくりとした指標にはなると思う。それで見れば、我々は教育にかけるお金の割合で言うと明らかに最低のグループに属しているにも関わらず、トップクラスの成績を叩きだしているということだ。


このカラクリはどこにあるか。私は、それが上に示したような日本の教育システムの洗脳性にあると言って良いと思っている。国力が貧しく、ヨーロッパに比べて近代化が立ち遅れた日本が世界に追いつくためには、極論すれば国民を騙してでも洗脳してでも勉強させる必要があった。そしてそれが今も続いているということではないのか。学歴信仰、教師=聖職者という祭り上げ、身分制の破壊と立身出世主義、管理主義詰め込み教育……様々に歪んだ近代日本の教育の風景の原点はおそらくそこに端を発し、未だにそこを抜け出せていない。どうしてやめないのか? それは簡単なことで、それが「最も安くて効果が上がる」ことは確かに事実だからだ。ただしそれが、人間の人間性とその権利、つまり人権に対する徹底的な侮蔑であることは言うまでもない。


要するに、こと教育制度に関して言えば、かつて貧乏で必死だったこの国は、意図しないうちに効率を追及した結果教育の洗脳性を高め、もはや高度に組織化された独裁国家の様相を呈しているということだ。真実を突きとめ真に自由な学びを得ようという動きは、まだ芽のうちにあらゆる手段で抑圧される。また、関係者は悉く善意でこれを行っているから始末が悪い。これは余談だが、これに比べれば日の丸・君が代強制問題など些末な問題だ。そもそも生徒に制服を強制し画一的な講義で居眠りすら許されない状況を強いることに何ら疑問を抱かずに唯々諾々と従って(どころか喜んで抑圧の主体と化して!)おいて自らと生徒の「内心の自由」を主張することがおかしいと本当に思わないのだろうか。制服を廃絶して自主的な学びが創造できないのだとしたら、それを恥じることから始めないで何の「人権」教育なのか。「自由と無軌道は違う」のは無論だ。だがそれなら「責任ある自由」を教えることこそ真の人権教育のはずであり、生徒の自主性を育てるのに有害な、過保護の形を取ったあらゆる管理教育に対して抵抗しなければおかしい。その上で、明らかに「一クラス40人で真の教育は不可能である」と主張しなくてはならないはずだろう。*1


話が逸れたので元に戻すが、要するに真の文科系教育を行おうとすれば、それは必然的にこのメディアリテラシーに触れざるを得ず、しかしそこに触れれば明治以来の日本の教育のあらゆるスタンダードを覆しかねない問題に繋がっていく。そして莫大なコストの増加となって現れ、また、それを導入しようとした結果おそらく日本の教育レベル(少なくとも「学力テストの結果」といった目に見える形での)は今後100年の間低下、もしくは崩壊するだろう。そこまでしないと我々一般大衆に真の「文科系の教養」は身に付かない。それだけの痛みを引き受ける覚悟のある政治家・官僚そして国民は果たしているだろうか、と考えれば、これは到底実現不可能な話である。
もちろん、国民全体に対して洗脳教育をやらかすことの弊害というのはもちろんあるわけで、簡単に言えば管理される人間ばかり増やして管理する側に立つ人間すらいなくなるということになる。この問題を避けるために存在したのが、つまり破天荒な気風の旧制高校であり、レジャーランドと揶揄されもした新制大学の自由な空間であった。つまり、彼らエリートに対して初めて「洗脳でない」教育を行うことで、国家はその中枢となる人材を育成してきたのである…とこれも些か余談。


いずれにせよそういうわけで、日本の学校教育制度の中で真の文科系教育などできない。これは構造的にできないので、頑張りましょうとか自覚しましょうとかそういう問題ではない。意図して少しずつ少しずつそれでも強制的に変える*2しかなく、もし一気に変えるとすれば全部一斉にぶっ壊すくらいしか方法がない。当分の間国民は、少なくとも高校を卒業する位までは前近代的愚民を対象とした洗脳教育を(それと知りながら)我が子に受けさせる以外に選択肢がない。だからせめて子供を大学に送り込み、そして大学教育の内容には短期的な視野でアレコレ口出しすることなく信頼して任せておくくらいしか方法がない。とりあえず現在の日本で真の文科系教育を行える場というのは大学くらいしか無いのだから。理系は……せめて教養部が復活してくれればいいのだが、望みは薄いので、自助努力して下さい。


以上は、「ヤバイのは理科教育より文科教育では?(赤の女王とお茶を)」に触発されたエントリ。言いたいことは非常に分かるし大切だと思うし、でもそれは無理なんです…という話。本当はコメント欄に書き始めたのだけど、すぐに「どう考えても内容が大きすぎ」と思ったのでTBすることにしました。どうも。


参考:
日本メディアリテラシー教育推進機構JMEC
管理教育と学校建築(東大の学生のレポートのようです。分かりやすい。)
新しい時代における教養教育の在り方について(中教審答申H14.2.21)

*1:分かりやすく言えば、すし詰めだが廉価で到達度の高い洗脳教育を取るか、少人数による高価で到達度の低い自由な教育を取るか、ということだ。

*2:ゆとり教育」の真の目的はそれなのだと思うが。だが、全体的な合意でなく一部による一種の陰謀じみたやり方で進めてきたため、総合的な学習の時間一つとっても、その方向に向けてどの程度の有効性を発揮できているのか疑わしい。